大伴家持>テーマに取り上げる理由

○長く調査してきた「大洋丸」の乗船者に私の郷里石川県羽咋の出身者がいた。
広橋百合子である。彼女は私が18歳で読んだ田中英光の「オリンポスの果実」に
最初から登場していた。ハードルの中村さんとして。作中人物のモデルはこの
作品の中でいろいろにあてはめられているが、私は田中英光の「スーベニール」
の相良八重も広橋だと考えている。ものの言い方動作などから女子陸上選手
のなかで一番小柄でお茶目だからである。
大伴家持は30歳のとき天平20年春3月、能登を巡行している。富山と石川の
県境、臼ヶ峰の峠を越えて、能登の入り口、羽咋の志雄路を降りてきて、
能登の一位の宮気多大社に参詣して大社前の海辺で日本海の朝凪を眺め、
舟と梶があったら漕ぎだしてみたいものだなあ、という短歌を詠んでいる。
大伴家持は、それから能登一円を巡行して、農民に官稲を貸し与えて秋に倍に
して国に返させるという「出挙」という租税の督励に励み旁ら能登にこのほか
4首の歌を残している。
○私の早稲田大学文学部の卒論のテーマは万葉集挽歌論であった。万葉集中の挽歌
をみな集めどういう人の死を悼んで詠んだかを分類して愛する人の死を悼んだ歌の
なかで人麿の泣血哀慟歌を最高の挽歌と結論したものである。
七尾高校時代「能登の島山」を眺めくらした下宿生活をしたためもある。ボート
を漕いで「梶取る間なく都しおもほゆ」の心境だったこともある。「清き瀬ごとに」
水占ないをして吉兆判断をしたいと切実に思ったこともある。
みな今にして思えば万葉集大伴家持能登の歌にたどり着くためだったのか。