大洋丸乗船者国枝憲治さん

○私の曾祖父は大東亜戦争が始まって半年後、東シナ海で亡くなりました。南方資源開発の技術者千余名が乗船した大洋丸は、米潜水艦の雷撃で出航後三日で沈められたのです。「いつも父は畳の上では死なんと言っていたのだから、きっと本望だったのよ」と祖母は…

*またまた、恵光院さんの「大洋丸」ご報知である。 大洋丸様 発見しました、2007.08.31. 午前09.30.電車車中にて。 ********************************************************************* 南方の開発要員で犠牲になった者も多く、開戦から半年後の昭和 …

賠償船大洋丸を最初に見た日本人

○大洋丸は日本に引き渡されて大洋丸となったが、そのハンブルグ港内に他のドイツの商船2,30隻とともに空しく浮かんでいた。(「凡愚問答」 角川新書61 1955 p105 辰野隆) *この本は大森一彦さんから知らされた。辰野隆は寺田寅彦と親交があり「人物書…

大洋丸の原名は Kap Finisterre

小山さん>大洋丸の元の名は Kap finstere (暗黒岬)と言われていますが。深井>そうですね。でもそれは、間違いです。大洋丸遺族会編集の『大洋丸誌』昭和60年12月発行p109にも「KAP FINSTER」これは日本語で「暗黒岬」または「地獄岬」…

フィニステレ岬沖を行く「深海の使者」

小山さん>ドイツ移民船の船名に、なぜスペインの岬名をつけたのでしょう。深井>ハンブルグ出航後、祖国独逸帝国の富国強兵政策により南米ラプラタの河口に直行させられる独逸移民たちの目には欧州大陸の陸影が望見されるのは、わずかにこの岬だからだろう…

大洋丸は戦勝国日本への独逸賠償船

小山さんが、また尋ねる。 大洋丸ってドイツ船だそうですね。答える。 ○第一次世界大戦中 現在の中国チンタオ(青島)の独逸経営市街を 日本が漁夫の利を占めて攻略(参戦決定は大隈第2次内閣) 戦勝国となって独逸帝国より全賠償額の0.75パーセントを…

大洋丸乗船者、相良八重

小山さんが尋ねてくる。 残念ながらまだ「オリンポスの果実」の女主人公のモデル相良八重の 写真は入手できていませんが。 答える。 (1)「サンデー毎日 第58巻第24号」1979年6月3日発行 p137タテ19cmヨコ5cm:一人だけ写真一杯の立…

大洋丸乗船者・最近調査分一覧

山本五十六:大正10年07月19日・横浜←桑港・海軍の元帥「真珠湾攻撃」 島田清次郎:大正11年04月17日・横浜→布哇・狂気の作家「天才と狂人」 西田 天香:昭和02年08月07日・横浜→布哇・無所有思想「亞米利加を」 井筒 光康:昭和02年1…

大洋丸と西田天香

○大洋丸の1等のサロンは、日本のホテルのどこよりも立派だそうである。二階分を 打抜いた高い天井は極彩色である。余興の舞台を作れば、劇場程の踊り場が出来る。 その中央に引出された私は托鉢衣で、一・二等船客のために原稿もなく宗教のような そうでも…

大洋丸乗船者広橋百合子の歓送写真

1 | 2 > 2007-07-08 00:49:12 大洋丸乗船者、大橋光吉と広橋百合子 テーマ:ブログ ○大正14年4月2日、博文館 専務取締役 大橋光吉は、欧米各国の印刷業視察と、新鋭の機械購入の為に、横浜 を東洋汽船 大洋丸 で出発して先ず米国 に向かった。(「博文館…

大洋丸乗船者徳永太郎と下枝夫妻

*昭和16年10月22日午後3時15分、大洋丸は横浜港を出港、 日米開戦迫るを知った在日米国人300人のハワイ送還船でした。 しかし、この時大洋丸は真珠湾奇襲攻撃のため軍人2名を乗船させた 現地諜報船でもありました。*とろで、このことを詳記す…

能登を行く大伴家持

*みやぎのはぎさん、筒井著書を滋賀県立図所蔵とご報知。ありがとうございました。 じつは、昨日三浦さんが杉野服飾大所蔵とご報知、図書館の伊吹さんのFAXで記事 入手となっておりました。しかし、検索のお手数に深く感謝を申しあげます。 はずかしながら…

大洋丸乗船者・筒井光康

*明治37年、長野県下伊那郡上郷生の筒井光康は、昭和2年東京麹町で「ベル・モード」を創業、今日のベルモード・ホールディングスに発展している。創業者筒井は横浜で婦人帽の製造販売を修行、昭和14年から欧州、米国を行脚、昭和15年10月桑港から横浜まで…

大洋丸が板東とし江さんの話に出た。

*千葉県船橋市在住・板東とし江(85歳)さんより聞き取り○修学旅行で関西に行ったのも楽しい思い出ですね。横浜から神戸まで、大洋丸という船で行くんですが、なんと一等船室なんです。普段接する機会のない、カッコいい船員さんをお部屋に呼んでうるさく…

大洋丸乗船者大橋光吉および広橋百合子

○大正14年4月2日、博文館専務取締役大橋光吉は、 欧米各国の印刷業視察と、新鋭の機械購入の為に、 横浜を東洋汽船大洋丸で出発して先ず米国に向かった。 (「博文館五十年史」博文館 1937 p297)*またまた、坂本さんが大洋丸記事をご報知。 「博文館五…

大洋丸をハンブルグ港で見た山田珠樹

○二人の不出来な愛情は、結婚の翌年山田珠樹が先に発ち、1年遅れて森茉莉が発った欧州の旅で、いくらか強まり生命を長引かせたが、二人には夜の飽和の裏打ちが無かった。 (「森茉莉全集 1」 筑摩書房 1993 p402)

能登を行く大伴家持

海行かば」と大伴家持・1頁要約書誌(深井人詩)*「海ゆかば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」この歌を石川県鳳至郡穴水国民学校3年生頃から太平洋戦争敗戦の5年生の夏まで、学校の講堂や穴水駅前で、川島の商店主たちに続い…

大洋丸航海日誌

*大洋丸を大正10年の夏の終わり頃、留学中のドイツはハンブルグ港で山田珠樹とともに見たと、辰野隆は「凡愚問答」に書いていて、その日が何日かは辰野の別の随筆集「」に収録の岳父宛て書簡の日付で判明している。9月24日ではなかったろうか。ところが大…

大洋丸航海日誌

*辰野隆は大洋丸をハンブルグ港で本当に見たのか。東京駅建築の辰野金吾長男、辰野隆の「凡愚問答」には確かに見たと書いてある。それは大正10年夏の終わりだったという。大洋丸が独逸の賠償として大正10年の1月に日本に回航されたことは当時の「海事新報…

大洋丸航海日誌

○天命を感じた瞬間だったかもしれない。2001年の初夏、商船の画集をめくっていると、紺色の船体と大洋丸の3文字が目に留まった。学生時代に耳にした、この船の悲劇が頭をよぎった。第2次大戦のさなかに九州西方に沈んだ商船と、遺族の嘆き。抑えきれない気…

大洋丸航海日誌

*飯澤さんが「オリンポスの果実」の著作権が切れていたことがわかる朝日新聞の記事を報知された。この作品で深井は大洋丸を知り関係記事を捜すようになった。それを知る飯澤さんはじめ多くの方々からも大洋丸記事を教えてもらってきた。○これまでもの言えな…

大洋丸航海日誌

*大森さんからの報知で、大洋丸がハンブルグ港にいるのを大正10年夏の終わりに見たという記事のある辰野隆の「凡愚問答」の疑問がいつも頭にある。それが湧田佑さんの「井伏鱒二事典」の「辰野隆」の項目に眼を止まらせた。

大洋丸航海日誌

○大洋丸にあの時乗船の特別扱い事務員は海軍大将鈴木貫太郎の甥海軍少佐鈴木英氏だったことを戦後に知った。彼は永野軍令部総長のいた海軍中枢作戦部に次のような内容の報告をしている。真珠湾には爆撃隊の大部分がいるようで、陸戦や防空部隊の大部分はホイ…

大洋丸航海日誌

○昭和16年10月15日、臨時ホノルル配船の大洋丸にアシスタント・パーサーとして乗り込んでみると、どことなく雰囲気が違う。外務省からの監督官がいた。またアシスタント・パーサーのなかに一人だけ特別扱いの人がいた。ユニホームは、私と同じ肩章の金筋2本…

大洋丸航海日誌

○昭和16年12月8日未明、日本陸海軍は西太平洋上で米英両軍と戦闘状態にはいった。開戦初の犠牲は三井船舶の淡路山丸。8日当日多数の兵員をつみ輸送船団に加わってマレー半島コタバルに接岸陸揚げ中敵機の攻撃を受けて火災を起こし沈没。そのあと沈没はふえ…

大洋丸航海日誌

○昭和10年度第5学年近畿地方修学旅行日程。昭和10年5月7日、横浜港から出帆する大洋丸のデッキから紙テープを手にした生徒たちの姿がズラット並ぶ写真。その上甲板に救命ボートも2隻見える。日程表、昭和10年5月7日(火)東京駅発午前8時30分、省線。…

大洋丸航海日誌

○大洋丸には大本営から極秘裡に派遣された前島寿英中佐、鈴木英少佐、松尾敬宇中尉らが、船医、高級船員、一等船客に身をかくして乗り込んでいた。ホノルル総領事館書記生として潜り込んでいる吉川猛夫海軍予備少尉や、軍事情報の収集に当たっていた奥田乙治…

大洋丸航海日誌

○大洋丸は大正9年第一次大戦終了時の賠償船でドイツから受け取ったものだが、その時引き取りに行った三井物産の山本幸男氏の子息邦男が、偶然にもこの遭難事件の犠牲者になった。大正年間の大洋丸は太平洋航路及び長崎−上海−神戸の航路にも就航し、長崎市の…

大洋丸航海日誌

○尾崎秀実を知ったのは昭和11年の夏、ヨセミテ国立公園で、太平洋問題調査会があり、日本の代表団に加わって、大洋丸で横浜を出帆しようという前日だった。調査会の日本事務局長牛場友彦が今度の会議に出る尾崎を紹介するというので、丸ビル地下の喫茶店で…

大洋丸航海日誌

○大洋丸に乗船した江商組ただ一人の生存者としてご遺族の弔問・葬儀に参列した。乗船を控えて慌ただしく華燭、新婚ほやほやの笠井未亡人、同じく新婚の三上未亡人の目も当てられぬ慟哭、母一人子一人で育て上げ、僅か一週間前に盛大に見送りをして、今聞く訃…