大洋丸乗船者国枝憲治さん

○私の曾祖父は大東亜戦争が始まって半年後、東シナ海で亡くなりました。南方資源開発の技術者千余名が乗船した大洋丸は、米潜水艦の雷撃で出航後三日で沈められたのです。「いつも父は畳の上では死なんと言っていたのだから、きっと本望だったのよ」と祖母は涙ながらに話してくれました。大洋丸が沈んだ近くの大瀬崎から海を眺めていると、曾祖父の存在が心に大きく迫ってきました。
(「生命の光 658」キリスト聖書塾 2006.8 p26 佐藤誉世夫)
大洋丸の遭難で兄上を亡くした飯田さんのご主人が8月15日に靖国神社に参拝された時に境内でこの「生命の光」8月号をもらったとのことである。飯田さんが別に取り寄せてくださった本誌から佐藤さんの文を要約した。飯田さんは私の「大洋丸の航海」(2002 p86)に亡兄追悼の歌を詠まれている飯田さんである。執筆者佐藤さんの曾祖父とは「大洋丸誌」(1985 p156)によれば、当時の大日本紡績会社の国枝さんであることが、飯田さんからも、直接佐藤さんと電話連絡してわかっている。

*またまた、恵光院さんの「大洋丸」ご報知である。
大洋丸
発見しました、2007.08.31. 午前09.30.電車車中にて。

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南方の開発要員で犠牲になった者も多く、開戦から半年後の昭和
十七(一九四二)年五/月八日、元北米航路の客船「大洋丸」(一万
四四五八総トン)がフィリピン、蘭印(現イン/ドネシア)に向かう
途中、九州の男女群島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
この船には、南方開発に向かう民間企業の社員と乗員を合わせて、
一三〇〇人以上が乗っていた。
大洋丸」の沈没による死亡者は八一七人になる。

『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』 岩間敏著
 朝日新聞社 2007.07.30. (「朝日選書 No.057」)
 新書判 237P. 720円
P.116 【 南方補給路の寸断】の章、
 【2 相次ぐ油槽船の海没によって南方石油は
 途絶した】節、【最後の油槽船】の項
 閲覧:記録者所蔵

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以上、連絡のみにて。購入するほどでは無いと想います。
本屋さんでの立ち読みにてご確認の程を。
新知見が無いのが残念です。

賠償船大洋丸を最初に見た日本人

大洋丸は日本に引き渡されて大洋丸となったが、そのハンブルグ港内に他のドイツの商船2,30隻とともに空しく浮かんでいた。(「凡愚問答」 角川新書61 1955 p105 辰野隆
*この本は大森一彦さんから知らされた。辰野隆寺田寅彦と親交があり「人物書誌大系36 寺田寅彦」の著者大森さんは寅彦も出てくる辰野の「凡愚問答」を持っていて、この大洋丸が1回出てくる箇所を偶然見つけコピーを深井に送付されたのである。大森さんは、深井が大洋丸という文字が1回でも出てくる本は全部読むということを、知っている人である。ところが、大洋丸ハンブルグ港で辰野が見た日が、いつなのかはっきりしない。「大正十年の夏の終わりだったか、秋の始めだったか」p105と書かれているのだ。
*すると間もなく、やはり大森さんから辰野の「閑人独語」洛陽書院1949p51のコピーが送付された。そこに「一昨日伯林を発して漢堡(ハンブルグ)に向かい本日再び伯林に舞戻り候」とある手紙の日付大正十年八月廿五日によって、辰野がハンブルグ大洋丸を見た日が大正10年8月24日だったことを証明する。
*ところが大洋丸が、この大正10年8月に、ハンブルグにいては困るのである。それは、当時の「海事新報」という海運業界新聞(早大中央図書館所蔵)が、大洋丸横浜回航が大正10年1月であることを度々報じていて、辰野(と山田珠樹)が見たとしているのは、日本に帰ってからの想像ではないかと、思われる。しかし、大洋丸を最初に見たとの辰野隆の記録は、興味深い調査を後日に残している。

大洋丸の原名は Kap Finisterre

小山さん>大洋丸の元の名は Kap finstere (暗黒岬)と言われていますが。

深井>そうですね。でもそれは、間違いです。

大洋丸遺族会編集の『大洋丸誌』昭和60年12月発行p109にも

「KAP FINSTER」これは日本語で「暗黒岬」または「地獄岬」と

言う意の訳がある。このことは、大洋丸の未来を暗示していたと

言えましょう」とあります。

深井>独和辞書で「finisterre」を探して行くと「finster」にたどりつき

「finisterre」に行き会わないせいでしょうね。

大正時代の日本の正式の船名録(早大図書館所蔵)にも

ブルーム・ウント・フォス社史にも

「KAP FINISTERRE」とあるのですよ。

小山さん>スペイン語だとやはり「地の果て岬」のようですね。

深井>terre は、欧州大陸のことで

finis は、欧州の田舎といわれるイベリア半島

大西洋に突き出たところ、最西端の意でしょうね。



ハンブルグ出航後、祖国独逸帝国の富国強兵政策により

南米ラプラタの河口に直行させられる独逸移民たちの目には

欧州大陸の陸影が望見されるのは、わずかにこの岬だから。

余談ですが、大洋丸の上層甲板には20mプールがあり、せめて

赤道直下通過時の炎暑を移民達に避けさせるための設備だったとか。

昭和7年、相良八重らと同船の前畑秀子ら水泳選手たちも

このプールで練習したと当時に東京日々新聞にあり。

フィニステレ岬沖を行く「深海の使者」

小山さん>ドイツ移民船の船名に、なぜスペインの岬名を

つけたのでしょう。

深井>ハンブルグ出航後、祖国独逸帝国の富国強兵政策により

南米ラプラタの河口に直行させられる独逸移民たちの目には

欧州大陸の陸影が望見されるのは、わずかにこの岬だから

だろうと、考えているのです。しかし確証はありません。

ちなみに、日本人の小説か旅行記に、この岬名がでてこないか

調べていますが、これまでに1件だけ見つかっています。

それがなんと、吉村昭の「深海の使者」という作品です。

時は昭和19年8月27日、太平洋戦争の真っただ中、

今度は同盟国になったナチス・ドイツへ軍事連絡に行く

日本海軍の伊号第八潜水艦が、この岬を望見する様子が描かれています。

伊号第八潜水艦は、潜行したまま航走を続け、数隻のイギリス哨戒艦

待機しているというフィニステレ岬に除々に近づき、日没時には、同岬の

南西約6マイルの位置に達した。そして日が没してから一時間後に、

ひそかに浮上した。

(「吉村昭自選作品集 4」 新潮社 1991 p119 吉村昭

さらに、余談ですが、大洋丸の上層甲板には20mプールがあり、せめて

赤道直下通過時の炎暑を移民達に避けさせるための設備だったとか。

昭和7年、相良八重らと同船の前畑秀子ら水泳選手たちも

このプールで練習したと当時の「東京日々新聞」が記しています。

大洋丸は戦勝国日本への独逸賠償船

小山さんが、また尋ねる。
大洋丸ってドイツ船だそうですね。

答える。
第一次世界大戦
現在の中国チンタオ(青島)の独逸経営市街を
日本が漁夫の利を占めて攻略(参戦決定は大隈第2次内閣)
戦勝国となって独逸帝国より全賠償額の0.75パーセントを取得
大洋丸カップ・フィニスター地の果て岬号:スペインの岬名)ほか8隻。

ハンブルグ港の当時世界第1級造船会社
ブルーム・ウント・フォスが1911明治44年8月建造
南米ブラジルの奥地に移民を送り込むための
ラプラタ河を遡れるよう平底・腰高に設計された貨客船
山下埠頭の氷川丸より千トン大きい1万4千トン
横浜回航は大正10年1月
淺野総一郎の東洋汽船が大蔵省より運航受託。

また、小山さんが言う。

大洋丸の元の名は
Kap finstere (暗黒岬)。固有名詞ですから意味はないですね。

大洋丸遺族会編集の『大洋丸誌』昭和60年12月発行p109にも
「KAP FINSTER」これは日本語で「暗黒岬」または「地獄岬」と
言う意の訳がある。このことは、大洋丸の未来を暗示していたと
言えましょう」とある。

辞書で「finisterre」を探して行くと「finster」にたどりつき
「finisterre」に行き会わないせいですかね。

大正時代の日本の正式の船名録(早大図書館所蔵)にも
ブルーム・ウント・フォス社史にも
「KAP FINISTERRE」とありました。
両方のコピーを持っていたのですが今探せません。

スペイン語だとやはり「地の果て岬」のようですね。

terre は、欧州大陸のことで
finis は、欧州の田舎といわれるイベリア半島
大西洋に突き出たところ、最西端の意でしょうか。

Cap finisterre なぜスペイン語の地名を取ったのでしょうか。

ハンブルグ出航後、祖国独逸帝国の富国強兵政策により
南米ラプラタの河口に直行させられる独逸移民たちの目には
欧州大陸の陸影が望見されるのは、わずかにこの岬だから。

余談ですが、大洋丸の上層甲板には20mプールがあり、せめて
赤道直下通過時の炎暑を移民達に避けさせるための設備だったとか。

昭和7年、相良八重らと同船の前畑秀子ら水泳選手たちも
このプールで練習したと当時に東京日々新聞にあり。

cap Finisterre (1509)の戦いというのがありますね。
仏蘭西vsスペイン?これに関係があるのかも?

よく調べましたね。
これは知りませんでした。

大洋丸乗船者、相良八重

小山さんが尋ねてくる。
残念ながらまだ「オリンポスの果実」の女主人公のモデル相良八重の
写真は入手できていませんが。
答える。
(1)「サンデー毎日 第58巻第24号」1979年6月3日発行
p137タテ19cmヨコ5cm:一人だけ写真一杯の立ち姿は
運動場か白のノースり−ブで短いパンツ着用。
毎日新聞社データベースセンター03−5223−8334か
毎日フォトバンクに問えば入手可能かも。

(2)『第十回オリムピック大写真帖』帝国公民教育協会
昭和7年10月1日発行、写真帖の部p14大洋丸甲板乗船選手
全員写真、p18甲板で練習中、p64オリンピック入場行進、
p111丸型顔写真、p118高跳び跳躍中の写真、
これらは相良八重と識別できるもの。
この写真帖は早大中央図書館地下2階大型本コーナー
にあります。(ヲ10−661)

西田天香大洋丸にのっていたのですね。
『亞米利加をのぞいてきて』京都山科・回光社
昭和5年1月15日発行
往路は昭和2年8月7日横浜より布哇へ。p8
帰路も昭和4年7月12日布哇より横浜へ。p363
深井所蔵。

山本五十六が両手に大皿を載せてとんぼ返りをうった
のも太洋丸でしょうか?
『人間山本五十六』反町栄一著、光和堂、
昭和39年10月5日再版、日本郵船諏訪丸船中です。
大正8年5月20日横浜出航、とんぼ返りは26日頃。
p222にその倒立写真あり、江東区立図書館所蔵