大洋丸乗船者・最近調査分一覧

山本五十六:大正10年07月19日・横浜←桑港・海軍の元帥「真珠湾攻撃
島田清次郎:大正11年04月17日・横浜→布哇・狂気の作家「天才と狂人」
西田 天香:昭和02年08月07日・横浜→布哇・無所有思想「亞米利加を」
井筒 光康:昭和02年10月31日・桑港→横浜・婦人帽製造「私のファッション」
栗林 忠道:昭和03年03月27日・横浜→桑港・硫黄島守備「玉砕総司令」
西田 天香:昭和04年07月12日・布哇→横浜・一燈園経営「亞米利加を」
徳永 太郎:昭和16年10月22日・横浜→布哇・大使館書記「URL」
      http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub19.htm

昨年12月予約37位で始まった栗林忠道評伝
『散るぞ悲しき』7箇月を過ぎやっと借りられ
ましたが大洋丸は登場しませんでした。その間
5冊ばかり栗林伝記を読みましたが結局最初の
『玉砕総司令官の絵手紙』がそれも初めのp7に
大洋丸が栗林を乗船して昭和3年3月27日横浜
出航、4月13日に桑港着港を、記すだけでした。
それにしても当時は東京だった硫黄島激戦記が
梯由美子、吉田津由子の二人の女性著者によっ
て詳細が物語られようとは不思議だったですね。


taiyomaru 2007-08

大洋丸と西田天香

大洋丸の1等のサロンは、日本のホテルのどこよりも立派だそうである。二階分を
打抜いた高い天井は極彩色である。余興の舞台を作れば、劇場程の踊り場が出来る。
その中央に引出された私は托鉢衣で、一・二等船客のために原稿もなく宗教のような
そうでもないような一燈園の生活を、その起こりから、話し始めました。
(「亞米利加をのぞいてきて」 回光社 1930 p31 西田天香

*田川さんが送ってくれたこの本から、30余年前の先師の声が聞こえました。
一燈至これどう読みます。あなたと同じヒトシ、天香の息子さんの名前です。

*先師は日本でも一番多種類の書誌を作られたが個人書誌の最高峰は
河上肇書誌』、経済学者河上が自分の経済学に悩んで入いったのが
京都山科にあった西田天香一燈園なのでした。

大洋丸乗船者広橋百合子の歓送写真

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2007-07-08 00:49:12
大洋丸乗船者、大橋光吉と広橋百合子
テーマ:ブログ
○大正14年4月2日、博文館 専務取締役 大橋光吉は、

欧米各国の印刷業視察と、新鋭の機械購入の為に、

横浜 を東洋汽船 大洋丸 で出発して先ず米国 に向かった。

(「博文館 五十年史」博文館  1937 p297)



*またまた、坂本さんが大洋丸 記事をご報知。

「博文館 五十史」(坪谷善四郎 )は早大 (ネ1-3823)に

ありますが、大洋丸 記事が掲載されているとは、

知りませんでした、見にゆきます。ありがとうございました。

大洋丸 調査の私の関心は、こうして突然博文館 史のうち

にも大洋丸 が出てくることを知ったり、大橋光吉という人物

がどんな人物かについて、そこここを見るついでに、

ほかにも関心のある箇所を、あちこちと読んで、

大久保さんなどによって教えられた博文館 について、

さらに知ることになることを喜んでいます。



*郷里 石川県 志賀町 立図書館 の例年農閑期2月の万葉講座

能登 を行く大伴家持 」に毎度出席の茶木さんから、葬儀

で行った奥さんの実家で見たアルバムに広橋百合 子の写真

が貼ってあったと電話があった。広橋は昭和 7年6月30

日から2週間、大洋丸 乗船者であった。田中英光 の「オリ

ンポスの果実」に出てくる大洋丸 船上でヒロイン「熊本 秋子」

のモデル相良八重とふたり女子走り高跳び選手でロサンジェルス

・オリンピック に出場した。小説では「中村さん」である。

当時石川県 羽咋高等女学校 在学の16歳であった。

茶木さんはその羽咋高女が戦後、羽咋高校となったときの

生徒で、どうして奥さんの家のアルバムに広橋百合 子の

写真が2枚も貼ってあたのだろうか。

1枚はオリンピック で彼女が1米50を飛んでいる写真、

1枚は羽咋駅で町の人々に見送られている写真だそうである。



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大洋丸乗船者徳永太郎と下枝夫妻

*昭和16年10月22日午後3時15分、大洋丸は横浜港を出港、
日米開戦迫るを知った在日米国人300人のハワイ送還船でした。
しかし、この時大洋丸真珠湾奇襲攻撃のため軍人2名を乗船させた
現地諜報船でもありました。

*とろで、このことを詳記する福留繁『史観・太平洋戦争』・
吉村昭大本営が震えた日』・二口一雄『豪華客船の航跡』も、
この時の大洋丸に、6月2日スイス公使館3等書記官に任命された
ばかりの徳永太郎・下枝夫妻が乗船したことを
記していません。
夫妻乗船を記すのは、坂本さん報知の鶴見俊輔「交換船」です。

*坂本さん報知「交換船」としたのは間違いで記事は「大洋丸
海日誌」2005年11月16日に記していたので再録します。

○徳永太郎は、1941年6月2日、在スイス日本公使館3等書記官に
任ぜられたが、独ソ戦でシベリア経由を断念、浅間丸で妻と横浜
を出航、しかし米国の在米日本資産凍結で、浅間丸は横浜に帰港。
しかし欧州赴任を果たすため、日米の政府間協定により運航の政
府御用船「大洋丸」で10月20日横浜出航、11月1日ホノルル到着。
徳永夫妻は数日後、米国船で桑港へ、大陸横断鉄道でニューヨー
ク到着。11月下旬出航、12月上旬リスボンに到着。マドリード
ら鉄道で12月8日、日米開戦の日ベルン着。駐スイス公使は三谷
隆信であった。
(「日本・欧米間、戦時下の旅」淡交社2005 p89 泉孝英)

*つまり大洋丸記事本は泉孝英「日本・欧米間、戦時下の旅」
でした。しかし、これも坂本さん報知本と記憶します。

*ところで、この本の著者泉さんは、その後の徳永夫妻がどうな
ったか記しませんが、ネットで「徳永太郎」と検索すると、その
前後の夫妻のことが詳しく出てきます。徳永下枝さんに聞く
インタービュー記事です。しかし、この長いインタービュー記事
は、本になっていると思うのですが、どなたか知りませんか。

能登を行く大伴家持

*みやぎのはぎさん、筒井著書を滋賀県立図所蔵とご報知。ありがとうございました。
じつは、昨日三浦さんが杉野服飾大所蔵とご報知、図書館の伊吹さんのFAXで記事
入手となっておりました。しかし、検索のお手数に深く感謝を申しあげます。
はずかしながら、国会のユニカット検索というもの、存じませんでした。

*みやぎのはぎさん、越中国守として地方官僚のポストを歩まされはじめた
大伴家持因幡太宰府→伊勢→相模→上総→陸奥と移り替わり多賀城で、つまり
みやぎのはらの露を枕に68歳の人生を終わっています。それまで書き文字の
なっかった日本に、はじめて漢字で、その音で日本語を表現した空前絶後
4500首の歌集、万葉集を残して。1250年ほど昔のことです。

大洋丸乗船者・筒井光康

明治37年、長野県下伊那郡上郷生の筒井光康は、昭和2年東京麹町で「ベル・モード」を創業、今日のベルモード・ホールディングスに発展している。創業者筒井は横浜で婦人帽の製造販売を修行、昭和14年から欧州、米国を行脚、昭和15年10月桑港から横浜まで大洋丸に乗船して帰国した。このことは彼の『私のファッション人生』に書かれていることはネットの

http://www.lesbellsmodes.com/

に詳しい。しかしこの筒井光康著『私のファッション人生』は国会図書館はじめ都内、横浜などの公共図書館、ナクシス検索でも所蔵が発見できません。
どなたか、なにか、ご存じありませんか。

大洋丸が板東とし江さんの話に出た。

*千葉県船橋市在住・板東とし江(85歳)さんより聞き取り

○修学旅行で関西に行ったのも楽しい思い出ですね。横浜から神戸まで、大洋丸という船で行くんですが、なんと一等船室なんです。普段接する機会のない、カッコいい船員さんをお部屋に呼んでうるさくして、怒られていた人たちもいたようですよ。関西は奈良、京都、神戸などをまわりました。向こうに着くとね、自動車に分乗して移動するんです。今考えるととても贅沢ですよねえ。横浜を出港する時はね、テープをお見送りの人に飛ばすんですよ。映画とかであるでしょう、ああいう感じです。それがね、修学旅行に行くだけなのに母をみてわんわん泣いてしまって。母も泣いていたと思います。これも笑い話ですね。

*このような大洋丸に乗って修学旅行に行った話は前にも聞いた。
葛西さんから聞いた現・白鴎高校でも同じ話がある。