2007-06-01から1ヶ月間の記事一覧

能登を行く大伴家持

海行かば」と大伴家持・1頁要約書誌(深井人詩)*「海ゆかば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」この歌を石川県鳳至郡穴水国民学校3年生頃から太平洋戦争敗戦の5年生の夏まで、学校の講堂や穴水駅前で、川島の商店主たちに続い…

大洋丸航海日誌

*大洋丸を大正10年の夏の終わり頃、留学中のドイツはハンブルグ港で山田珠樹とともに見たと、辰野隆は「凡愚問答」に書いていて、その日が何日かは辰野の別の随筆集「」に収録の岳父宛て書簡の日付で判明している。9月24日ではなかったろうか。ところが大…

大洋丸航海日誌

*辰野隆は大洋丸をハンブルグ港で本当に見たのか。東京駅建築の辰野金吾長男、辰野隆の「凡愚問答」には確かに見たと書いてある。それは大正10年夏の終わりだったという。大洋丸が独逸の賠償として大正10年の1月に日本に回航されたことは当時の「海事新報…

大洋丸航海日誌

○天命を感じた瞬間だったかもしれない。2001年の初夏、商船の画集をめくっていると、紺色の船体と大洋丸の3文字が目に留まった。学生時代に耳にした、この船の悲劇が頭をよぎった。第2次大戦のさなかに九州西方に沈んだ商船と、遺族の嘆き。抑えきれない気…

大洋丸航海日誌

*飯澤さんが「オリンポスの果実」の著作権が切れていたことがわかる朝日新聞の記事を報知された。この作品で深井は大洋丸を知り関係記事を捜すようになった。それを知る飯澤さんはじめ多くの方々からも大洋丸記事を教えてもらってきた。○これまでもの言えな…

大洋丸航海日誌

*大森さんからの報知で、大洋丸がハンブルグ港にいるのを大正10年夏の終わりに見たという記事のある辰野隆の「凡愚問答」の疑問がいつも頭にある。それが湧田佑さんの「井伏鱒二事典」の「辰野隆」の項目に眼を止まらせた。

大洋丸航海日誌

○大洋丸にあの時乗船の特別扱い事務員は海軍大将鈴木貫太郎の甥海軍少佐鈴木英氏だったことを戦後に知った。彼は永野軍令部総長のいた海軍中枢作戦部に次のような内容の報告をしている。真珠湾には爆撃隊の大部分がいるようで、陸戦や防空部隊の大部分はホイ…

大洋丸航海日誌

○昭和16年10月15日、臨時ホノルル配船の大洋丸にアシスタント・パーサーとして乗り込んでみると、どことなく雰囲気が違う。外務省からの監督官がいた。またアシスタント・パーサーのなかに一人だけ特別扱いの人がいた。ユニホームは、私と同じ肩章の金筋2本…

大洋丸航海日誌

○昭和16年12月8日未明、日本陸海軍は西太平洋上で米英両軍と戦闘状態にはいった。開戦初の犠牲は三井船舶の淡路山丸。8日当日多数の兵員をつみ輸送船団に加わってマレー半島コタバルに接岸陸揚げ中敵機の攻撃を受けて火災を起こし沈没。そのあと沈没はふえ…

大洋丸航海日誌

○昭和10年度第5学年近畿地方修学旅行日程。昭和10年5月7日、横浜港から出帆する大洋丸のデッキから紙テープを手にした生徒たちの姿がズラット並ぶ写真。その上甲板に救命ボートも2隻見える。日程表、昭和10年5月7日(火)東京駅発午前8時30分、省線。…