2006-03-01から1ヶ月間の記事一覧

大伴家持>僧平栄

「平栄」僧 天平感宝元年5月、僧平栄が訪ねてくる。平栄は東大寺占墾地使すなわち東大寺の墾田を確保する使者で全国にとんで寺領の拡大につとめていた。東大寺建造大仏鋳造は国家の大目的だからである。家持は平栄を布勢の海に案内して饗応している。家持の…

大伴家持>田辺福麿

「田辺福麿」 天平20年3月、橘諸兄の使者として家持を訪ねてきた。造酒司令史とは酒を醸し、甘酒や酢などをつくる役所の三等官であるが、歌集もある歌人である。どういう役目があって左大臣の使者として越中に来たのであろうか。万葉集編集の話か、政治的密…

大伴家持>天平17年上京中止

「天平17年」 ○天平勝宝9年、橘奈良麻呂の藤原仲麻呂暗殺計画がもれた。陸奥守佐伯全成は聖武天皇病気の天平17年、大伴・佐伯の氏人を反乱に誘ったと自白した。家持は知らされていなかったか。家持の従弟大伴古麻呂と越中の掾であり家持の部下でもある大伴池…

大伴家持>香島より

○「香島より」 (太田光一)香島は鹿島郡の鹿島で現在の七尾港である。熊木村は現在の七尾市の北西の鹿島郡中島町の熊来川の河口辺であろう。楫とる間なくとは櫓を漕ぐ手を休める間もなく、つまり絶え間なくである。「香島より」も「妹にあわず」も望郷の念…

大伴家持>妹に逢わず

「妹に逢わず」 (太田光一)饒石川は現在の仁岸川で、鳳至郡剣地で日本海に注いでおり、羽咋市より北であるから4028番「妹に逢わず」は4025番「志雄路から」の次ぎに詠まれたと思われる。なお、この「水占」は「清き瀬ごとに」に「元気か、具合が悪いか」と唱…

大伴家持>志雄路から

「志雄路から」 (太田光一)之乎路とは志雄路のことで、現在の氷見市から羽咋市へ抜ける臼が峰の西の所司原を通る街道であろう。ほの暗い木立の山道を下って来て、ぱっと眼前に海が開けた。その時の開放感は鏡のように朝凪した海を見て更にいや増したのであ…

大伴家持>珠洲の海

「珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり」 (橋本達雄)珠洲は能登半島の突端に近く、郡家(郡の役所)があった。そこを朝早く船出して、国府に近い氷見の長浜に着いたときには、月が明るく照っていたのである。単純な内容だが、のびやかで…

大伴家持>天平16−18年

「天平16−18年」 (小野寛)巻16までの歌と巻17以後の歌記録は性格が全くことなる。歌記録に対する態度の変化で、天平16年後半から18年の2年間に起こった。天平17年正月7日、家持は従5位下に叙せられた。しかし、官を得るのは天平18年3月10日の宮内少輔任官…

大伴家持>能登の島山

○大洋丸に乗り合わせた大伴家持は香島津から船出して、造船用材の船木が繁っていて 神々しい能登の島山を眺めている。

坪野哲久>小説新潮と早稲田文学の掲載短歌

○今日は志賀町立図書館の森さんの依頼で早稲田文学の昭和49年7月号と小説新潮の昭和31年9月号に掲載された坪野哲久の短歌と目次・奥付・表紙のコピーを早稲田大学中央図書館の雑誌書庫に複写に行った。この昭和30年頃は坪野さんも有名だったようだ。…

大伴家持>テーマに取り上げる理由

○長く調査してきた「大洋丸」の乗船者に私の郷里石川県羽咋の出身者がいた。 広橋百合子である。彼女は私が18歳で読んだ田中英光の「オリンポスの果実」に 最初から登場していた。ハードルの中村さんとして。作中人物のモデルはこの 作品の中でいろいろにあ…