能登を行く大伴家持

海行かば」と大伴家持・1頁要約書誌(深井人詩)

*「海ゆかば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」この歌を石川県鳳至郡穴水国民学校3年生頃から太平洋戦争敗戦の5年生の夏まで、学校の講堂や穴水駅前で、川島の商店主たちに続いた父の出征時や高等科生徒の満蒙開拓義勇軍への出発時に戦勝を祈願して歌った。荘厳な曲調の作曲者は信時潔という人と後で知った。
信時研究にウェブ文献目録を作成、本誌に寄稿の信時裕子さんは、潔のお孫さんという。万葉集4094大伴家持の賀陸奥国出金詔書歌中のこの歌は万葉集中最古の歌といわれる。

○廷臣すべての精神の拠り所であるべき皇室讃美の共感を、大伴氏の矜持によって破綻せしめている。寿歌としての挫折で、大伴氏対聖武、大伴氏内部にしか有効性をもたない。
(「美夫君志 49」 1994 p11 菊池威雄)

○大伴氏が伴造を代表していた時代への家持の憧憬であり、その大伴氏の古い体質が残り、藤原氏のように律令官人制に適応し、利用することが出来なかったことは確かである。
(「万葉 154」 1995 p2 鉄野昌弘

○新興藤原氏に対抗するために、大伴一族は過去の栄光を克服すべきであったが、聖武帝の要求は、前代の保守的な臣下の忠誠であり、それが家持の血を沸きたたせたのである。
(「美夫君志 49」 1994 p9 菊池威雄)

<1頁要約書誌・未完>