大洋丸文献探索>都留重人記事要約>太平洋戦争開戦第2日

●米国に日本が戦争をしかけることなど、思いもよらず、そんなことは、
自殺行為だと、米国の研究者仲間に語った都留もそういってまもなく日本軍の
真珠湾攻撃を事実として、敵国のアメリカで体験することになってしまった。
その真珠湾攻撃の日、どういう目にあったものか、読んでおくことにする。

○十二月七日の晩は、ラジオをかけ放しにしながら、訪ねてきた友人たちと
おそくまでいろいろな話をした。私は外へ出て、いくつかの新聞を買って帰り、
十一時ごろまでそれに読みふけった。ちょうどその日は、正子がボストンの
YWCAでお年寄りに日本語を教えに行く日だったが、事態はっきりするまで
は遠慮したほうがよいだろうから、お断りに行こうというので、私がついて正子
とボストンに出かけた。電車に乗ったら、いきなり後ろから手を引くものがある。
ふりかえると、その朝も電話してくれたポール・スゥィジーで、おぼえず両方
から手をさしのべて電車の中で握手した。「どうなるかわからぬが元気でやれ」
と、彼の眼が語っているようだった。WYCAでは、お年寄りがいつものように
日本語レッスンの準備をして待っておられたが、事情を説明して暫くは休みたい
からと申し出たところ、ではいっしょに昼食をしようと誘われる。
それもお断りして、私たち二人は、ケンブリッジへ帰り、行きつけの食料品店で
八ポンド近くの大きなロース卜・ビーフやその他野菜類を買いこみ、しばらくは
外へ出なくてもすむような準備をして帰宅した。この八日の午後、他の日本人
から旅券の番号をFBI(連邦調査庁)に知らせるようにとの連絡があったので、
すぐFBIに電話すると、なるべく外へ出ないようにと注意があった。
(「都留重人自伝−いくつかの岐路を通って」岩波書店 2002 p174)