大洋丸文献探索>大竹虎雄講演要約>大蔵省貸付

●次の講演集は、早大図書館在職中に「大洋丸」記事調査を
「日独」というキーワードで、書名カード目録などを検索していて、
全く偶然に発見したものである。大洋丸が独逸帝国からの賠償船で
あるからである。「日独」が書名で先頭に来るカードはそれはそれは
数多いので、どうかな、なにか関連のある書名がないかな、という
軽い気持ちで、カードにさわっていたときなので、偶然としかいい
ようがないが、嬉しかった。

○独逸の賠償支払の初期に、各国は沢山の船舶
を引受けました。我国では、まず Cap Finistere
号を受取り、東洋汽船会社に貸付け、貸付料を収
受しました。同社ではこれを「大洋丸」と改称し、
米国航路に就航しました。皆様よくご存知のあの
大洋丸」でございます。東洋汽船が日本郵船と合併
後は日本郵船に貸付けていましたが、大蔵省は昭
和四年五月に同船を郵船に譲渡し、その代金は賠
償金特別会計に入れました。次に受取ったKleist
号も、郵船に貸付け、吉野丸と改称されましたが、
同じく昭和四年五月、日本郵船に譲渡しました
(「日独文化講演集7」 日独文化協会 1931
p24 大竹虎雄)

●昭和17年5月、太平洋戦争占領地へ開拓経済戦士
として、1000余名の各業界の優秀人材を運ぶ、
第1回派遣船団では、偶然にもこの独逸賠償船として
同時に日本に回航された大洋丸が先頭で、この吉野丸が
最後尾で東シナ海を南方に向け航海中、米潜によって
魚雷攻撃され、吉野丸が大洋丸撃沈の姿を見ることに
なる。しかし、大正10年から日本郵船が国産の豪華
客船を建造する昭和4、5年までは、北太平洋航路の
豪華客船として、この講演で「皆様よくご存知のあの
大洋丸」と呼ばれた時代があったことがわかる。