大洋丸文献探索>二口一雄記事要約>二口一雄二度避難

○私の乗った「大洋丸」は昭和16年10月20日神戸港、21日横浜港を
発ってホノルルに向かった。往航に日本からの外人引揚者310人、復航に
邦人帰国者447人を乗船した。11月1日にホノルル着、5日に出帆した。
そのパール・ハーバーを12月8日日本海空軍が攻撃し開戦、17日私は
大洋丸を下船し、神戸支店書記神戸在勤海務監督付を命ずる辞令を受けた。
その後「大洋丸」は陸軍御用船となり、5月8日敵潜水艦の攻撃で撃沈、
生存者543人、遭難死者817人、社命下船がなければ私も同じ運命であ
ったことを思い、社葬の時は感無量であった。昭和20年3月17日、都合
で宿直を交代してもらった翌朝、出勤途上の三宮駅で石段に腰かけていた老
婆は、気づくと死んでいた。海岸通りの郵船ビルは生き残っていたが、近づ
くと中は3階各階、天井とも突き抜けて青空が見え、外壁だけが残っていた。
(二口一雄「海なお青く」2004 p319 二口一雄二度避難)


○私の乗った「大洋丸」は昭和16年10月20日神戸港、21日横浜港を
発ってホノルルに向かった。往航に日本からの外人引揚者310人、復航に
邦人帰国者447人を乗船した。11月1日にホノルル着、5日に出帆した。
そのパール・ハーバーを12月8日日本海空軍が攻撃し開戦、17日私は
大洋丸を下船し、神戸支店書記神戸在勤海務監督付を命ずる辞令を受けた。
その後「大洋丸」は陸軍御用船となり、5月8日敵潜水艦の攻撃で撃沈、
生存者543人、遭難死者817人、社命下船がなければ私も同じ運命であ
ったことを思い、社葬の時は感無量であった。昭和20年3月17日、都合
で宿直を交代してもらった翌朝、出勤途上の三宮駅で石段に腰かけていた老
婆は、気づくと死んでいた。海岸通りの郵船ビルは生き残っていたが、近づ
くと中は3階各階、天井とも突き抜けて青空が見え、外壁だけが残っていた。
(二口一雄「海なお青く」2004 p319 二口一雄二度避難)