大洋丸>石川県関係乗船者

大正11年4月17日、ベストセラー小説「地上」の印税で、「島田清次郎」が外遊する船は
大洋丸」である。夫の狂暴な振る舞いで、疲労の極にあった新妻の豊子は、その日が変更しないことを願ったが、彼女の兄は、越中島の高等商船を出た日本郵船の機関士で、郵船の船は出港の日時を変更しないことが分かっていた(「天才と狂人の間」 河出文庫1994 p148 杉森久英
島田清次郎(1899~1930)(大8)長編「地上」でベストセラー作家となるが傲慢な態度と行状で世間から非難され松原病院に入るなどして窮死した。

昭和7年6月30日、東京での合宿練習を終え、皆さんの見送りを受けて「大洋丸」に乗り込みました。船に不慣れな私は、この永い航海を何よりも心配しましたが、船が故国を離れる時、必勝を胸に誓ったのでした。コンディションを船中で、彼の地で保持するのが第一条件でした。船中では高田・山岡先生が私共の体調を心配され、ある時は練習に、ある時は遊戯に、絶えず御指導下さいました。船に酔う心配をした私でしたが、甲板での競技練習や遊技、器械馬で遊べたので、愉快に過ごすことができました(「第十回オリムピック大会報告」三省堂 1934.5 p243 広橋百合子)
○広橋百合子(昭7)羽咋高女在学中ロサンゼルス・オリンピック走高跳出場1.5m9位。裏日本唯一人の女子選手。

昭和8年1月29日、金沢駅前東洋軒で金沢の方々と茶を飲み、支那そば、酒もくむ。吹雪のなか7時15分発急行に乗車。30日午前7時に上野着。出迎え東京の友人に混じりメーソン氏。午前中武雄が郵船に行き切符を買った。暁烏のは「大洋丸」1等221号室1500円、武雄のはツーリスト65号室590円、離れて不便だが10日間に500円武雄分を節約した(「暁烏敏全集3−3ハワイ紀行」香草舎 1960 p508)
昭和8年のハワイ旅行は1月30日に発って、4月29日に帰る約3箇月の講演行脚である。招待の責任者はヒロの泉原寛海回教使で、その女婿である暁烏武雄を随行に指名してきた。ハワイ4島を巡講するのである。「大洋丸」に乗って3日目即ち2月2日船中に電報が来た。台湾開教監督木下方渓からで10月台湾全島にわたっての巡講依頼の電話であった。承諾の返電と同時に、整っていた昭和8年の予定の変更を家信した(「暁烏敏伝」大和書房 1974 p542 野本永久)
昭和8年4月11日、横浜よりの「大洋丸」で「暁烏敏」氏来布。横浜よりの「大洋丸」で、13年振りに日本ビールが到着した(「布哇年鑑1934-35」日布時事社 1934 p133)
暁烏敏(1877~1954)松任北安田真宗大谷派の僧。倫理否定で異安心視される。多くの信奉者をもち日本・世界各地で講演。(昭26)東本願寺宗務総長におされて大谷派の財政及び信仰の危機を救う。

昭和9年4月26日桑港よりの「大洋丸」で故国へ飛躍する飛行士「東善作」、ユニバーサル社撮影技師三村明氏等寄港。加哇島ワイメア日本人基督教婦人会の函館罹災者慰問品「大洋丸」で積出さる(「布哇年鑑1934-35年度」1934 p38)
東善作(1893-1967)は、羽咋市歴史民俗史料館(google)によれば、
(明26)羽咋郡南大海村中沼(かほく市中沼町)生。一の宮羽咋小学校、役場給仕、朝鮮、京都中学、岡山県関西中学(車夫となり学費を稼ぐ)、北国新聞記者、金沢で飛行機曲芸を見、飛行士を志望、渡米、(大5)23才オークランドのデュランド飛行学校、(大9)クラーク水上飛行学校、(大10)クーパー高等飛行学校(国際高等ライセンス取得)、(大12)関東大震災で時、ロサンゼルス市上空からHELP JAPANと機体に大書した飛行機でビラをまき、日本救援を呼びかけた。(昭5)日本人初のアメリカ・ヨーロッパ・アジアの三大陸横断飛行に自費で挑戦、無事に立川飛行場に降り立った。(昭30)ウラン鉱として有名な人形峠(岡山・鳥取の県境)を発見。(昭32)ウラン鉱業会社を設立したが、(昭42)74歳で没した。