大洋丸>「大洋丸の航海」概要

○金沢講演資料の一つとして「1頁抄録書誌」作成例である。

大洋丸の航海」(深井人詩著 日本古書通信こつう豆本141 2002 95p)の概要

大洋丸との出会いは田中英光の「オリンポスの果実」、この作品は昭和7年のオリンピック出場した選手たちの物語である。大正10年大洋丸初来日の記事は深井が在職した早大図書館所蔵の「海事新報」に、運航引受の東洋汽船浅野総一郎と後楯安田善次郎の処女航海の記事は、石川県立図書館が所蔵する「加越能時報」に掲載されていた。
●大正10年5月「独逸賠償船」
A甲板には庭園、図書室、遊泳場、体操場、無線電信室等、庭園には古風の藤椅子を並べ、花木は芳香を放ち、遊泳場は数百畳もある。体操場には電気仕掛けの木馬、B甲板は婦人室、喫煙室、子供部屋、酒保などがあって、婦人室は清楚であり美麗である(「加越能時報 351」加越能時報社 1921 p3 高波紅波)
●大正10年7月「北米航路船」
ワシントン駐在の山本五十六中佐に帰国命令が出た。ビリー・ミッチェルの飛行機による軍艦爆撃の実験が行われる直前の残念な帰国である。山本は大正10年7月上旬桑港で大洋丸に乗船した(「真珠湾攻撃その予言者と実行者」文芸春秋1986 p57 和田頴太)
●大正12年9月「震災救援船」
大洋丸は、北米から横浜に急行、罹災民清水行2550名、神戸行250名、計2800名をのせて9日横浜発、17日再び横浜に帰港。焼跡の桟橋から罹災民清水及神戸行2273名を乗船、20日横浜を出航した(「横浜市震災誌4」横浜市役所 1927 p373)
●昭和7年7月「オリンピック船」
7月1日大洋丸船上で練習開始、日課は7時体操、朝食後バック台、駆足、速歩、昼食後休養、3時から午前と同じ練習、6時夕食、夜は自由時間。2日夜、映画「栄光を目指して」上映。4日朝遭難訓練、昼、船員招待の園遊会。6日、入場式の練習、夜甲板ですき焼会。11日午前6時、ホノルル着(「田中英光全集11」芳賀書店1965  p443 林清司)
●昭和16年11月「奇襲諜報船」
ハワイ攻撃作戦は反対が強かったが、昭和16年10月19日、山本五十六司令長官の強い意向で実施が決定した。海軍はハワイ現地偵察を企画。7月南支那海で沿岸封鎖中の鈴木英少佐に命令が下り、潜水学校教官前島寿英中佐と共に、10月22日、横浜を出港する大洋丸に乗船した(「写真太平洋戦争1」 光人社 1995  p12 梅野和夫)
●昭和17年5月「雷撃遭難船」
南方占領地開拓のため、国内企業から選抜された経済戦士千余名が大洋丸に乗船、宇品港を出航して3日目の5月8日夜、長崎五島列島沖で敵潜水艦の雷撃を受けて積載のカーバイトに引火、大火災が起きて、近藤輸送指揮官、原田船長らは重要書類を海中に投下し、全員に退船命令が出た。傾いた大洋丸から、多数の乗員が雪崩のように海中に落ちた。まだ灯かりをつけた大洋丸が、船首から海中に突っ込むのが、今にも沈みそうなボートに乗った人達から見えた(「企業戦士、昭和17年春の漂流」朝日新聞社1988  p251 小田桐誠)
●昭和61月7月「追悼遺族船」
兄が死んだ東シナ海の海へ、母と長崎から船で行った。大洋丸沈没海域は、長崎から2時間ほどで意外に近い距離だった。風の冷たい、うねりの高い海面へ、ほかの遺族たちにならって、百合、薔薇、菊などの花束を投げた。海暗という言葉を思い浮べるほど、海は黝ずんだ青さであった(「新潮現代文学75 」 新潮社 1981 p356  田久保英夫