大洋丸>航海日誌

大伴家持はその時期、天平20年春3月の出挙のとき、彼の身の上には、どのような任務があったか。聖武天皇の要求は、橘諸兄の要請は、大伴一族の族長とも言うべき彼への期待は?などなど究明すべき事共がある。
○一口に、出挙というが単に官稲種米を貸し与えてその倍額を秋に税として収納しただけだろうか。饒石河の上流から下流への旅は鉄の精練の状況視察ではないのか。川の水量を見て勧農の方策を立てようとしたのではないか、などなど考察すべきことが多い。
大伴家持能登の旅は、七尾湾の南・西・北湾をすべてまわり、最後に能登島東方の富山西湾を眺めて終わる。お疲れ様であるのであるが、諸説交錯する意見見解は最後の「珠洲の海に朝開して漕ぎくれば長浜の浦に月照りにけり」に集中している。
大洋丸の航海日誌は誰の閲覧もなく、東京海洋大学越中島分校の百周年記念館の書庫で、静かに朽ち果てるのだろうか。万葉集のように同じく最初は手でなで回されていたのであろうけれど。