坪野哲久>早稲田大学理工学部長付書記

●坪野哲久>早稲田大学理工学部長付書記
○昭和16年(35歳)秋より早稲田大学理工学部長付書記に就職(「歌集碧巌]短歌新聞社文庫1998p122)
○山本忠興理工学部長名・昭和15年11月27日付「早稲田大学中央研究所設置要項案」の「施設ヲ必要トスル事由」より「在来の施設ノミヲ以テシテハ到底ソノ研究使命ヲ達成スル能ハザルニ至リシ為、応急ノ処置トシテ本年4月牛込区喜久井町17番地ニ研究所トシテ土地及ビ建築物ヲ購入シ、コレニ適当ナル施設ヲ整備シ」(理工学研究所所蔵文書)
○全くアカデミックな立場で研究所は成立してそれに学生が触れていく(「早稲田大学理工学研究所所報3」p5)
○「理工学部研究所出現の記」(伊原貞敏)(「早稲田大学機友会誌33」1940.07p68−69)遠大な抱負をもって研究業務に精励したことと思われるが、戦災でおおくの資料を焼失したので研究成果の詳細は不明である。
○理工学研究所の昭和17年度決算額は特別研究費・委託研究費・文部省科学研究費などをふくめ約20万3千円であった。
早稲田大学附属研究所規定・第3条・研究所ニ左ノ職員ヲ置ク。
所長、所員、助手、助手補、技手、技手補、主事、書記、書記補、雇員、工員
以上昭和18年1月15日維持会決議より
○以上(「早稲田大学百年史3」1987p925−927)より
○昭和16年度になると早稲田大学理工学部電気工学科は従来の4分科制から3分科制となり、電工、電通、工経という簡明な組織となり、次いで17年度になると、この第2分科を独立させて電気通信学科を設けるに至った。逓信省も電気通信技術者なる資格を国家試験により付与することに決定、大学専門学校出身者は当然この資格を無条件で獲得出来ることになった。これは昭和15年頃から計画中のところ、山本忠興学部長、堤秀一教授の尽力により実現を見るにいたり、逓信省工務局長松前重義氏の絶大なる賛同をうけ今回認可を受けるところとなった(「稿本早稲田大学百年史3下第2分冊」1983p679−680)
●以上「坪野哲久」が書記に就職したとされる昭和15年から昭和17年にかけての早稲田大学理工学部と学部長山本忠興の動向を示す記事を摘録した。