大伴家持>九州下向

藤原氏は、対立する大伴氏の棟梁である家持の父・大伴旅人を、都から遠ざけるために、中納言のまま太宰帥を兼任させた。旅人の留守中、天平元年(729)2月、時の最高権力者・長屋王が謀反を起こしたとして捕まえられ、2日後に殺された。藤原不比等の子、武智麻呂、宇合らの仕業である。彼らは長屋王の死後6か月後、自分たちの姉妹・光明子聖武天皇の皇后にすることができた。長屋王派だった旅人は、これをなす術なく太宰府から望見するばかりであった。太宰帥は、そういういわくつきの官職で、隠流(しのびながし)ともいわれた。明治時代に小倉へ赴任させられた森鴎外は、自嘲して「隠流」というペンネームを使ったほどである。家持が父・旅人に従って九州に下向していたことは、万葉集に「卿の男家持等、駅使を相送りて、共に夷守の駅に至り(巻4・567)」とあることで知られる。旅人が重病を患い、都から見舞いの使者が来たとき、駅使が帰るのを家持らが見送ったというのである。このとき家持13歳の6月である。九州に下向した正確な時期は不明だが神亀3年(725)か4年、家持9歳か10歳のころである(「大伴家持1佐保の貴公子」角川書店1994p27中西進