坪野哲久>石内徹、加藤克巳

(石内徹)http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/emag/data/ishiuchi-toru01.htm
 二十年ほど以前、東京・経堂に坪野哲久・山田あき御夫妻をおたずねした。寒かったので、冬であったろう。壮年を過ぎていた御夫妻は、当時すでに高名な歌人であった。 私たちが通されたのは、清潔なダイニングキッチンだったように思う。御夫妻にむきあう形で簡素な椅子に腰を下ろしたが、暖房がなく、寒さが身にしみた。哲久氏のスリッパを履かれた白い素足にしもやけができていたことを不思議に、おぼえている。あき氏は、話の途中で、小ぶりな茶碗に香りの高い煎茶を何度も入れ替えて下さった。そのまろやかな滋味を、氏の涼やかに澄み切ったご容貌とともに、今だにはっきりと覚えている。

(加藤克巳)http://homepage3.nifty.com/mino-mushi/hyoron/katsumi3.html
じんじんとわが胸は創(きず) ゲルニカの母の泣くとき〈血涙の棘〉(山田あき『飛泉』)
過ぎゆきは人間の創(きず) 消えずしもあれ 壁ひえびえと夜の憩あり (坪野哲久『春服』)
 この二首は、「創」のあとの二句目で切れる共通点がある。
 山田あきの作品は、上句で胸の創の痛みを具体的に感じているようす、坪野哲久は抽象的な創の痛み、生きてゆく過程でうける創の総合した痛みをいう。
 山田の作品は、ピカソゲルニカの絵を見て、直接感じる心の痛みがあり、空白には感情の高まりが凝縮している。
 一方、哲久の人間の創は、具体的な事柄に結びつけず、生の総体から湧き出る痛みであり、その緩やかな広がりがある。空白には痛みを受けとり、癒す時間が流れている。ここでは二箇所の空白と、それに囲まれた「消えずしもあれ」があり、消えないものを受けとめながら、前後に流れる空白の時間に緩やかに思いが託されている。
 作品の言葉あるいは言葉の関係から立ち上がってくる心情や意味などにより同じ三十一文字であっても言葉の質や量 の違いがあり、空白が含むものも当然異なってくる。