坪野哲久>自分を貶めず

(高山雅夫)http://www1.parkcity.ne.jp/blueblue/sanbun/tekkyu/tekkyu2.htm
○木琴をたたきてあそぶ孤(ひと)つかげ秋しばしだにやすらぎあらせよ
 「木琴を叩いて遊んでいる(幼い我が子の無心の)孤独な姿。(その孤独な営み)にとって(厳冬期を前にした)秋(の一日)よ、ほんのしばらくであっていいから安らかな時間であって欲しいものである(その後にやってくる耐え難い冬の日=先の見えない戦争の時代が、目の前まで来ているのだから)」
○秋のみづ素甕にあふれさいはひは孤(ひと)りのわれにきざすかなしも
 「(透明で冷たい)秋の水は素焼きの甕に溢れている。(それは)孤独・孤絶の(生き方を選択した)自分の(その孤独な)心の中にこそかすかにその気配を見出すことができる幸福のありようそのものである。誰とも共有することができないこの(「秋の水」のように、やがては凍ってしまうかもしれない)幸福の気配よ(私にはそのようなものとしての「幸いという名の自己肯定」以外に現在の自分の生き方を肯うすべなど有りはしないのだ)」
 以上、『櫻』集中に見られる「個」あるいは「孤」という単語を用いた歌を何首か挙げ、わたしなりの口語訳を試みた。多分に恣意的な「意訳」であるかもしれない。しかし、哲久の「ひとりうたげ」が何を意味していたのかということを明らかにするためには、思い切って踏み込んだ解釈が必要であろうと考える。ここに掲出した所以である。
(小松亮一)http://www1.odn.ne.jp/b.mayo/k4/Coram2.html
○くるほしくなりゆくきはもおとしめず花紋をゑがき死なば死ぬべき(「九月一日」)
 これは坪野哲久という人が書いた短歌ですが、この人はプロレタリアの短歌活動を
していて、何度も逮捕されていたようです。この「九月一日」 という詩集は当時発
禁処分になっていたようです。この短歌はとても政治的な意味合いをもっていると言
われています。現代風に訳せば、どれだけ惨めな気分になろうとも自分を貶めたりせずに自分のやりたいことをしていれば死ぬことになったとしてもそれでいいではないか、という感じでしょうか。