坪野哲久>早稲田大学書記・1頁要約書誌2版



早稲田大学理工学部長付書記坪野哲久・1頁要約書誌・2版(深井人詩)

 
     要約末尾に頁のみの典拠は(山本司「歌集碧巌」坪野哲久 短歌新聞社 1998)

明治39年9月1日 坪野哲久 高浜町に父・次六、母・よねの4男として出生(p121)

大正10年 山本忠興、早稲田大学理工学部長に就任、昭和19年に退任、退職。
(「山本忠興資料目録」 早稲田大学大学史資料センター 2005 p4)

昭和4年 哲久、東洋大学卒業。東京ガスの人夫となり、労働組合運動を始める。
昭和6年 哲久、山田あきと結婚。「戦旗」社員として検挙、起訴猶予(p121)

昭和15年4月 牛込区喜久井町17番地に理工学部研究所の土地及建物を購入。
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1988 p926)    

昭和15年7月2日撮影と想定の写真。早大大隈講堂前。背広服17人の3列目
右端が坪野哲久。外に学生服8人と和服女性1人。志賀町立図書館所蔵写真。

昭和15年 理工学部主事及主任と裏面に鉛筆書きの写真。早大演劇博物館前。
礼服の9人、座席前列右より二人目が当時理工学部長の山本忠興。 
前項の写真と3人はほぼ同一人物。これで前項写真は理工学部関係者といえる。
早稲田大学大学史資料センターの「山本忠興資料」より深井が発見した写真。

昭和16年 哲久胸部疾患再発、自宅療養。秋より早大理工学部長付書記に就職(p122)

哲久は当時、早大理工学部長付書記として勤務した。同学部に友人清水常太郎が
勤めていて、ぼくに来ないかといってきたが、ぼくは遊んでいた哲久を推薦した。
(渡辺久二郎 「むねん 渡辺久二郎歌文集」 なべ・おさみ 1986 p185)
渡辺久二郎は、哲久編集刊行の歌誌「鍛冶」の同人であった。

食うため、私は某大学の書記という不思議な仕事にありついた。助教授くらいの
値打ちがあると冗談口を叩きながら勤めたが、2年目には喀血でまたたおれた。
(坪野哲久 「坪野哲久小説集」石川県志賀町 2006 p86) *作品名「鎖」

昭和18年1月15日、早大維持委員会で「早大附属研究所規定」が決議された。
その第3条 研究所に次ぎの職員を置く。
所長 所員 助手 助手補 技手 技手補 主事 書記 書記補 雇員 工員
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1988 p927)

昭和20年5月25日 早大理工学部研究所は、空襲で多くの資料を焼失したので
抱負を持って研究業務に精励したことと思われるが、研究成果の詳細は不明である。
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1987 p927)  
坪野哲久の勤務は、以上の資料から大学本部の理工学部ではなく本部から徒歩
10分にあった喜久井町17番地の理工学部研究所ではなかったかと推定される。

昭和47年 哲久、「歌集碧巌」にて第23回読売文学賞を受賞。
昭和63年 哲久、前頸部癌のため代々木病院にて逝去。享年82歳(p123)