早稲田大学書記・坪野哲久・1頁要約書誌・1改訂(深井人詩)を作る。

        

坪野哲久は歌集「碧巌」で、昭和47年読売文学賞受賞。今年平成18年は生誕100年、
郷里石川県志賀町町立図書館では記念行事を行う。同館の森さんから坪野は早大に勤務
したことがあり早大退職者の深井に一歩踏み込んだ調査をして欲しいとの依頼があった。

(山本 司 「歌集碧巌」坪野哲久著 短歌新聞社文庫 1998 p122)
明治39年09月01日、高浜町(現・志賀町)に出生。高浜小学校高等科を経て、
大正14年東洋大学入学。「アララギ」入会。大正15年、短歌の師・島木赤彦逝去。
昭和4年23歳、東洋大学卒業。東京ガスの人夫となり、労働組合運動を始める。
昭和16年35歳、胸部疾患再発、自宅療養。秋より「早大理工学部長付書記」となる。
昭和17年36歳、3月治安維持法違反として病臥中検挙。4月留置所で喀血、渡辺久
二郎らの尽力で仮釈放・保護観察となる。坪野編集発行の歌誌「鍛冶」発行停止。

(渡辺久二郎 「むねん 渡辺久二郎歌文集」 なべ・おさみ 1986 p185)
彼は早稲田大学理工学部部長付書記として勤務した。これは友人清水常太郎が勤めて
いて、初めぼくに来ないかと話があったのを、ぼくは遊んでいた哲久を推薦した。

(坪野哲久 「坪野哲久小説集」 石川県志賀町 2006 p105 作品「鎖」)
大学の書記は蛆虫みたいなものだ。わからずやの教授と商売上手の学校経営者の両方
からしめあげられ、グウの音もあげ得ない卑屈な存在にされている。教授たちは揃い
も揃って尊大な低能で、書記は彼らの下男であることを思い知らねばならなかった。

(「山本忠興資料目録」 早稲田大学大学史資料センター 2005 p4-5 略年譜)
大正10年、早稲田大学理工学部長に就任、昭和19年までその職にあった。

(「早稲田大学百年史別巻Ⅱ」 早稲田大学 1989 p25)
昭和15年04月、早大50周年記念事業に理工学部研究所を牛込区喜久井町17番地の
高台に土地および建造物を購入して開設。初代所長に山本忠興が就任。

(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1987 p927)
理工学部研究所は遠大な抱負を持って研究業務に精励したことと思われるが、戦災で
多くの資料を焼失したので研究成果の詳細は不明である。