坪野哲久>山本忠興理工学部研究所長付書記?

坪野哲久は歌集「碧巌」で昭和47年読売文学賞を受賞。今年平成18年は生誕100年、
郷里石川県志賀町町立図書館では8月に講演会、9月展覧会を行う。同館司書森さん
から早大退職者同町出身の深井に坪野早大勤務状況調査の依頼があった。深井作成
著作目録収録「森銑三著作集」は「碧巌」同様昭和47年読売文学賞という縁がある。


(山本 司 「歌集碧巌」坪野哲久著 短歌新聞社文庫 1998 p122)
明治39年09月01日、石川県羽咋郡高浜町(現・志賀町)に父次六、母よねの4男
として出生。本名久作。家業は兼業小作人大正8年高浜小学校卒業、高等科に進学。
大正14年04月東洋大学入学。「アララギ」入会。大正15年03月師島木赤彦逝去。
昭和04年23歳、東洋大学卒業。東京ガスの人夫となり、労働組合運動を始める。
昭和16年35歳、胸部疾患再発、自宅療養。秋より早大理工学部長付書記に就職。
昭和17年36歳、3月治安維持法違反として病臥中検挙。4月留置所で喀血、渡辺久
二郎等の尽力で仮釈放・保護観察となる。坪野編集発行の歌誌「鍛冶」発行停止。


(渡辺久二郎 「むねん 渡辺久二郎歌文集」 なべ・おさみ 1986 p185)
彼は早稲田大学理工学部部長付書記として勤務した。これは友人清水常太郎が勤めて
いて、初めぼくに来ないかと話があったのを、ぼくは遊んでいた哲久を推薦した。


「むねん」発行人なべ・おさみ、本名・渡辺修三明治大学卒、俳優・著書に
七転八倒少年記」、父久二郎は「平林たい子賞」委員会会長を務めた。


(坪野哲久 「坪野哲久小説集」 石川県志賀町 2006 p96,105 作品「鎖」)
食うため、私は某大学の書記という不思議な仕事にありついた。助教授くらいの値打
ちはあると冗談口を叩きながら勤めていたが、二年目には例の喀血でまた倒れた。


(「山本忠興資料目録」 早稲田大学大学史資料センター 2005 p4-5 略年譜)
大正10年、早稲田大学理工学部長に就任(昭和19年に退任退職)
昭和6年、テレヴィジョン研究の功績により朝日賞受賞。
昭和12年東京女子大学理事、翌年理事長に就任(昭和26年死去まで)


(「早稲田大学百年史別巻Ⅱ」 早稲田大学 1989 p25)
昭和15年04月、早大50周年記念事業に理工学部研究所を牛込区喜久井町17番地の
高台に土地および建造物を購入して開設。初代所長に山本忠興が就任。


(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1987 p927)
理工学部研究所は遠大な抱負を持って研究業務に精励したことと思われるが、戦災で
多くの資料を焼失したので研究成果の詳細は不明である。