坪野哲久>早稲田大学「1頁要約書誌」第3版

深井編集発行の年刊誌『文献探索』では、「1頁要約書誌」というものの原稿を募集している。
自己設定の文献探索のテーマについて、執筆者の異なる見解を5行5件程度集めて、
自分の理解の範囲で要約して示す作業である。そのテーマについての見識を深めるための、
有効な一方法である。要約記事には典拠を( )内に記すこと、5点の要約記事のまえがきに、
数行のテーマ解説または調査動機を書くことがルールである。
以下は深井郷里の町立図書館で今年行われる行事「歌人・坪野哲久生誕100年記念講演会・
展覧会」に協力する文献探索を「1頁要約書誌」として改訂を続けている書誌の第3版である。




 早稲田大学理工学部長付書記坪野哲久・1頁要約書誌・3版(深井人詩)
 
   
    *要約末尾に頁のみの典拠は(山本司「歌集碧巌」坪野哲久 短歌新聞社 1998)


坪野哲久(明39志賀高浜生−昭63没)昭和47読売文学賞歌人早大就職(昭15-16)
事情につき、深井に対して郷里志賀町立図書館より、調査依頼があった。


     大正10年 山本忠興、早稲田大学理工学部長に就任、昭和19年に退任、退職。
(「山本忠興資料目録」 早稲田大学大学史資料センター 2005 p4)

昭和4年 哲久、東洋大学卒業。東京ガスの人夫となり、労働組合運動を始める。
昭和6年 哲久、山田あきと結婚。「戦旗」社員として検挙、起訴猶予(p121)

昭和15年4月 牛込区喜久井町17番地に理工学部研究所の土地及建物を購入。
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1988 p926)    

昭和15年7月2日撮影と想定の写真。早大大隈講堂前。背広服17人の3列目
右端が坪野哲久。外に学生服8人と和服女性1人。*志賀町立図書館所蔵写真。

昭和15年 理工学部主事及主任と裏面に鉛筆書きの写真。早大演劇博物館前。
礼服の9人、座席前列右より二人目が当時理工学部長の山本忠興。 
前項の写真と3人はほぼ同一人物。これで前項写真は理工学部関係者といえる。
早稲田大学大学史資料センターの「山本忠興資料」より深井が発見した写真。

昭和16年 哲久胸部疾患再発、自宅療養。秋より早大理工学部長付書記に就職(p122)

哲久は当時、早大理工学部長付書記として勤務した。同学部に友人清水常太郎が
勤めていて、ぼくに来ないかといってきたが、ぼくは遊んでいた哲久を推薦した。
(渡辺久二郎 「むねん 渡辺久二郎歌文集」 なべ・おさみ 1986 p185)
*渡辺久二郎は、哲久編集刊行の歌誌「鍛冶」の同人であった。

食うため、私は某大学の書記という不思議な仕事にありついた。助教授くらいの
値打ちがあると冗談口を叩きながら勤めたが、2年目には喀血でまたたおれた。
(坪野哲久 「坪野哲久小説集」石川県志賀町 2006 p86) *作品名「鎖」

昭和18年1月 早稲田大学附属研究所規定・第3条 研究所に次ぎの職員を置く。
所長 所員 助手 助手補 技手 技手補 主事 書記 書記補 雇員 工員
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1988 p927)

昭和20年5月25日 早大理工学部研究所は、空襲で多くの資料を焼失したので
抱負を持って研究業務に精励したことと思われるが、研究成果の詳細は不明である。
(「早稲田大学百年史 3」 早稲田大学 1987 p927)  
*坪野哲久の勤務は、以上の資料から大学本部の理工学部ではなく本部から徒歩
10分にあった喜久井町17番地の理工学部研究所ではなかったかと推定される。

昭和47年 哲久、「歌集碧巌」にて第23回読売文学賞を受賞。
昭和63年 哲久、前頸部癌のため代々木病院にて逝去。享年82歳(p123)