大洋丸航海日誌

○バランスをうしなったボートは海上高く宙づりになり、必死の思いで取りすがる人々も、豆の様にばらばらと暗夜の海上に振り落とされて行く。この惨状を目撃してボートを諦め、最後まで船に残りスタミナ温存を計る事にした。ボートに乗ることを諦めるとなにもバタバタ慌てる事はない。気分がグンと落ち着き、目から鱗が落ちた様に周囲の状況がハッキリ見えてきた。船から飛び込むタイミングと場所は黒潮の流れと風向きを考えると日章旗のある船尾しかないとトッサに判断し、左舷に大きく傾いた船内の通路を、デッキの支柱を伝い下り、手摺りに這い上がり、甲板を走り抜けた。船内は人気も絶えて、カバンや衣服その他の持ち物が散乱して、脱出時の狼狽ぶりを物語っている。船は次第に船首を海中に突っ込みだし、後部ハッチ付近に百名前後の人々が集まってきたが立つのも困難な状況になった。私一人思い定めた船尾の旗竿へ這い上がり、大事の前のションベンと片手にポールを握りながら、白く長い放物線で身を軽くした。次に煙草に火をつけて一服する。煙草を投げ捨てると共に垂直に飛び降りたが、なかなか海面につかない。体はそんな経験がない。船尾が持ち上がって十数米の高さである。2〜3秒の僅かな時間だが色々なことを考えるものだ。海中深く落ちて、海面に顔を上げたときは大洋丸から百米ほどはなれていたが、掴まるものがない。大きな波が次から次へと襲ってくる。このとき7〜8人がつかまった救命筏が突然眼前に現れたので、すがりついたのが生への第一歩になった。飛び込んで間もなく大洋丸は腹にしみわたる然し静かな汽笛を長く引いた。船内の明かりは一斉に消え、船尾を垂直に持ち上げ、水圧で船内のものを吹き飛ばす異様なシャーという轟音と共にプツンと姿を消してしまった。大洋丸の火が消え、海面を残酷な寂寥が支配した。
(「まるえむ 24」江商社友会1994 p23-24 鈴木康平)