大洋丸文献探索>ライシャワー記事要約>都留重人に言及

江東区蔵書を、キーワード「真珠湾」検索したなかに徳岡孝夫「ドロシーくし
なしの謎−真珠湾を知っていた女」があった。トーランドJ「真珠湾攻撃」の
訳者も徳岡孝夫。訳者徳岡孝夫に「ライシャワー自伝」がでてきた。戦後日本
占領軍総司令官マッカーサー元帥の有名に次ぐ、米大統領ケネディ任命の駐日
大使ライシャワーライシャワーはハーバート大学燕京研究所所長であったから、
日米間の往復は戦前も頻繁で、大洋丸乗船者であったかも知れない。以上の関心
から「ライシャワー自伝」を読んでいたら、ライシャワー自身が大洋丸に乗船した
記載は発見出来なかったが、大洋丸乗船者都留重人ライシャワーがハーバート
大学で友人だったことがわかった。

アメリカの上院の赤狩りたちによって自殺に追い込まれたエジプト駐在カナダ
大使ハーバート・ノーマンは、私の少年時代のテニス仲間であった。ハーバート・
ノーマンの死は、彼の悲劇であるかりでなく、日本研究にも大きい打撃だった。
なぜなら彼は欧米の学者と戦後日本のマルクス義的な色合いの濃い日本の学界
をつなぐ輪であった。ノーマンのことはよく知られているが、私のハーバート時代
の友人である都留重人のことを知るアメリカ人が少ないことだろう。戦後まもなく
日本社会党員として活躍した都留は、ハーバートの客員教授講師として1年の約束で
大学に呼び戻され、その間にマッカーシー委員会に喚問された。1930年代の
学生時代の活動に疑念を持たれたのなら一気に晴らそうと、自信満々でワシントンに
出かけた都留は、かえってマッカーシーの罠に落ちることになった。マッカーシー
共産党員の長いリストを見せて都留に知人がいるかと訊ね、都留はそのほとんどを
知らなかった。会議場から出てきたマッカーシーは何も知らない日本の記者団の前で
リストを振りかざして、都留の訊問とで入手した共産党員人の名前だと宣言した。
日本のマスコミはすっかり信じ込み、以後の数カ月は都留のことをかつての同志った
裏切り者と攻撃したのだった。
(「ライシャワー自伝」 文芸春秋 1987 p195 ライシャワーEO)