大洋丸文献探索>都留重人記事要約>アメリカ留学

●次ぎの都留重人の本のことは、埼玉県桶川市在住の三分一さんから、
大洋丸」のことが出ているからと、コピーを送ってもらって知った
のであった。三分一さんは父上を「大洋丸」雷撃撃沈事件で亡くされ
ている。父上は戦前の日本綿花の社員で、戦後の社名変更後の
ニチメン百年史」にも、昭和17年5月の事件で優秀社員12名を
失ったことが掲載されている。三分一さんの父上は、この選抜南方
派遣隊の隊長であった。三分一さんは桶川市の図書館で都留氏の
本を読まれたときが、たまたま深井が近著の豆本大洋丸の航海」
を贈ったばかりの時であったのである。三分一さんと深井は、
竹内さんに紹介された。竹内さんと三分一さんは大阪の小学校同級生、
関東の同窓会に参加の三分一さん兄妹の、妹さんが「大洋丸」で父上を
亡くされたことを話されていて、それを竹内さんが聞きつけた、
というわけであった。竹内さんは、深井がこうした書誌学の道に
入るきっかけを作ってくれた恩人である。竹内さんは三分一さんと
堺の運動場で南部忠平さんから、走り高跳びの指導をうけたという。
南部さんは深井が初めて「大洋丸」にであった「オリンポスの果実」に
東田良平という名前で登場する、ロサンゼルス・オリンピック
三段跳び優勝者である。人との出会いや、隠れた縁というものの
不思議を思わずにはいられない出来事であったと思う。

○ドイツ語を第一外国語にしていたので、ドイツへ留学したいと
父に相談すると父は、ドイツではマルクス主義に近い社会民主党
第1党で共産党も強い。お前の勉強にはアメリカへ行くのが一番
良い。それに同意するなら、旅費と2年分ぐらいの学費・生活費
は面倒を見よう、といってくれた。アメリカの神学校に留学の経験
をもつ叔父の仙次が、それに賛成したので、私もそうすることにした。
英会話の特訓をうけることになり、世話役を買って出られたのは、
名古屋YMCA顧問のトルーマン氏で、英会話にはウイルバー夫妻を、
話相手にはワトキンズ青年を、留学先としてはウィスコンシン州
アルプトン所在のローレンス・カレッジに入学手続きをするように
提案された。ウイルバー夫妻には、避暑滞在中の野尻湖に一週間ほど
お邪魔して親しくなり、ワトキンズ青年との友好関係も楽しいもの
であった。ローレンス・カレッジへは私から学長に宛て、アメリカの
ハイスクール卒業程度の学歴があるので、入学を認めてほしい、という
手紙を送ったところ、9月からの入学を認める返事がきた。
父は5000円を用意してくれたが、その時の為替率では2500ドルに
相当し、授業料・寄宿料・その他の出費を考慮しても、これだけあれば、
2年間の滞米に充分だろうと、考えることができた。
1931年8月27日、私はポータブル・タイプライターと二つの
スーツケースを持ち、日本郵船の「大洋丸」の乗客となって渡米の途につき、
9月11日の午後、「大洋丸」は桑港に入港した。
(「都留重人自伝 岩波書店 2002 p55)