大洋丸文献探索>梅野和夫ほかの記事要約>大洋丸真珠湾偵察行

○ハワイ攻撃作戦については連合艦隊の上層指揮官の中にも反対が強かったが、
山本連合艦隊司令長官の強い意向で実施が決定され、昭和16年10月19日、
軍令部総長は正式に決裁を与えた。この決定に先立ち日本海軍は、ハワイ現地
偵察、諜報作戦を実施した。7月南支那海で沿岸封鎖中の鈴木英少佐は、
ハワイ現地偵察を命ぜられた。少佐は潜水学校教官前島寿英中佐と共に、
10月22日、横浜を出港する「大洋丸」に乗船した。
(「写真太平洋戦争1」 光人社 1995 p12 梅野和夫)

○鈴木英は陸軍大将の息子であり、あの二・二六事件で瀕死の重傷を負った、
著名な海軍大将鈴木貫太郎侍従長の甥であった。彼の任務は、攻撃目標の正確
な位置、使用爆弾の種類、緊急着陸可能な地点を把握だった。
(「大日本帝国の興亡1」 毎日新聞社 1971 p259 トーランドJ)

○11月1日未明大洋丸オアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につ
かまった。哨戒機は頭上を旋回。船が100マイル地点まで近接すると、米軍
機が編隊を組んで近づき、「大洋丸」を目標に急降下し、擬襲をおこなった。
なかなか上手だぞ、 私は船橋から、米軍の演習ぶりを眺めた。「大洋丸」の
幸運が訪れた。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近い
ところに接岸させた。何という幸運!真珠湾が丸見えではないか!
それに「大洋丸」は、古い大型船で、デッキが高く、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25 鈴木英)

○1日大洋丸はホノルルに入港、出入港には海兵隊が10名くらいで検問する。
船員が無線電信機の調整をすれば、監視所から直ぐ調査に来る。偵察に上陸
すれば、すぐにオートバイが尾行してきた。
(「史観・真珠湾攻撃」 自由アジア社 1955 p188 福留繁)

○5日7時30分、大洋丸に漸くホノルル出港許可がおりた。アメリカ軍の帰国
日本人に対する荷物調査や、乗務員への身体検査が厳しく、4日午後5時の
出港予定が、崩れたのである。大洋丸の横浜入港は順調にいっても11月17
日になる。真珠湾奇襲部隊の呉軍港出撃日は、11月18日となっていて、
それに間に合うかどうか危ぶない。得られた情報を、先発隊に伝えなければ、
無駄になってしまう。
(「大本営が震えた日」 新潮社 1981 p283 吉村昭