大洋丸文献探索>西園寺公一記事要約>ヨセミテ会議

●次ぎの記事は、グーグルで「大洋丸」を検索したなかで、
尾崎秀実の獄中日記のなかに、西園寺公一と「大洋丸」に
同室して、太平洋問題調査会に出席するための記事があった。
尾崎の著書の中に「大洋丸」は未発見であるが、西園寺の自伝の方に、
大洋丸」を発見したのである。
尾崎秀実がゾルゲを通じソ連に日本の政情秘密を伝えていたことが発覚、
死刑になったのは昭和19年。尾崎の著書「愛情は降る星のごとく」に、
誤ったファシズムの方向に進んで行く日本の動向に一人で立ち向かって
いった自分の理想主義のために、家族に塗炭の苦しみを与えたことをわ
びる、尾崎には同情を禁じ得ない。

○昭和11年、牛島友彦から米国ヨセミテで開催される太平洋問題の
国際会議IFRへ出席を求められた。牛場は高校・大学の先輩で、IFR
の幹事だった。外務省嘱託の僕は渡りに船だった。IFRが民間団体だっ
たのでよかった。欧米の学者や政治家と、政治的問題で、アカデミックに
議論するということも魅力的だった。第1回と2回がホノルルで、
3回が京都、4回が上海、5回がカナダ、6回が米国ヨセミテだった。
大洋丸」で日本を出発したのは昭和11年7月29日だった。
尾崎秀実と相部屋だった。尾崎は新進の中国評論家でなかなか羽振りが
よかった。世界政治の話もしたが、最初は食い物の話をしたら、意見が
合った。彼も得意な分野の一つだろう。彼は中国語はしゃべれたが、
英語は得意じゃなかった。会議では僕がそばに座って通訳をしてやった。
(「西園寺公一自伝−過ぎ去りし、昭和」 アイペックス
  1991 p111 西園寺公一