大洋丸文献探索>鈴木英記事要約>日曜奇襲

○昭和二年、候補生の時に練習航海で訪れて以来、十四年ぶり
に見たオアフ島の姿だったが、内地での準備期間に頭にたたき
こんだ写真のおかげで、島影も岬も湾頭も懐かしく思えた。
 想像していた以上に警戒は厳重だった。港外には防潜網が用
意され、警戒船がそのはしにいて、命下れば直ちに防潜網を張
る訓練をしているのが見える。ホノルル港外で士官以下十名の
米海兵が乗りこんできた。警戒のためである。それに大洋丸
真横に、イギリス駆逐艦が碇をおろしている。陸へ上った船員
の話では、オートバイの尾行がつくということで、とても陸上
での連絡は不可能に思えたので一切の情報収集を船内でやるこ
とにした。領事館からは在留日本人の引き揚げ乗船の手続きで、
頻繁に大洋丸に連絡がくる。その度船長室に来させて軍港の情
報を聞いた。聞いて船橋に行き直接に眼でたしかめる。戦艦八、
空母三、甲巡十一、 オアフ島所在機五〇〇、カネオエ基地
飛行機一一五、陸軍機ヒッカム基地一五〇(爆撃機)、ホイラ
ー基地二〇〇(戦闘機)、ベロース基地三〇(練習機)各施設、
格納庫数などを我が眼に納めた。私はやはり興奮を禁じ得ない
三十三歳の青年であった。だが任務は冷静を要求する。領事館
から船に毎朝、新聞を届けたが、このなかに紙片がはさんであ
った。もちろん米国税関の検査を受けなければならないのだが、
日本側で積極的にバラバラと新聞のハシをあけてみせると、す
ぐにOKになつた。こうして持ち込まれた紙片には、米艦艇の
入港の日時、隻数などが記されていたが、私はこれを片端から
記憶すると紙片は焼き捨てた。スパイの鉄則は末端スパイと接
触しないことである。私は喜多総領事にだけ身分を明かしたが
他は日本人といえども気を許さなかった。領事館には吉川氏と
いう海軍少尉で病気のため現役を離れ、外交官になつた人がい
て、この人が情報を集めていたが、重要な情報はやはり米軍人
からの売り込みであったようだ。オットー・クエンいうハワイ
在住のドイツ人を軍令部がスパイに使っていることも、私は教
えられていたが、彼とは連絡をとらなかった。末端と接触すれ
ば必ず危険がある。危険を冒すよりも「太洋丸」にあって情報
を分析し総合することにつとめた。ホノルル出航は4日予定で
あつたが、私は船長に無理に頼んだ。どうしても5日の真珠湾
が見たい。何とかして下さい。船長は理由もきかず引き受けた。
積み込み作業が意識的に遅らされたが、荷役で一日くらい出港
が延びるのは、さして珍しいことでもないらしく、米国側もそ
れほど注意を払わなかった。五日早朝、私は飛び起きると船橋
から真珠湾を眺めた。私がなぜ出航を延期してもらって日曜の
朝の真珠湾を見たか。奇襲は日曜日と作戦プランにあったのだ。
軍港は全く静かな休養の朝を迎えているではないか。
(「日本4.11」 講談社 1961 p27 鈴木英)