大洋丸文献探索>山本茂記事要約>相良八重

(記事要約)
○このシリーズでは作品のなかのヒロインに会って聞いた話を書くのが
原則なのだが、田中英光が池谷賞を受賞した「オリンポスの果実」のヒ
ロイン熊本秋子、すなわち走高跳選手相良八重は、広島県三次市の前田
家へ嫁いだが、昭和42年に急死していた。しかし私は、せめて彼女を
知る人々に会い、彼女のことを聞くことで、時間をさかのぼり、彼女に
出会いたいと思った。土倉麻(女子ハードルの内田さん、三段跳田島直
人夫人、鎌倉市)私も田中英光さんも最年少、デッキでいつもひとりぼ
っちで、啄木歌集を読んでいた。私とは気軽に話しましたが、可愛い人
でした。内田のモデルは私だと、よくいわれますが、80米ハードルの
中西さんとのミックスだと思います。中西みち(参議院議員栗原俊夫夫
人、群馬県藤岡市)たしかに私は相良さんと一番親しくて、一緒に行動
していたけれど、相良さんは竹を割ったようなさっぱりした性格でした
から、日に焼けて真っ黒で、まるで男みたいでしたよ。彼女のいた体育
専門学校なんか、座る時はあぐらをかくんですから。そりゃ相良さんは
背が高く、足も長く、可愛らしい顔をしていたけれど、およそ色気はな
かったわねえ。渡辺すみ子(400米リレーのアンカー、中京大梅村清
明理事長夫人、愛知県豊田市)相良さんは、「大洋丸」で初めて知りま
した。人なつっこい、明るい、いや味のない人でした。同じハイジャン
プの広橋百合子さんなんか、よく”さがちん”と呼んでましたね。田中
さんはなにか可愛らしいというか、茶目っぽい、おもしろそうな印象で
した。でも、二人が仲良しだとか、田中さんが好きだったとかいう評判
は聞いておりません。少しでもそういうことがあると、上からしかられ
るので大変でしたから。村岡美枝(百米のMさん、400米リレー第一
走者、佐藤姓で夫を失い半身不随で愛知医大病院入院中)私、中西さん
に頼んでボートの選手にサイン帳を書いてもらたが、とても良い歌だっ
たので、もっと書いてと頼んだら、ひと晩かかって恋の歌を十数首も書
いてくれた。かにかくに、太平洋に星多き、夜はともすれば、涙ながれ
ぬ。錦絵の、墨田の川を、くだりゆく、エイトの中に、われの漕ぎおり。
その最後に、これは、あなたのことではないから、ご安心くださいって、
但し書きがついていたわ。東俊郎監督(東竜太郎元東京都知事実弟、順
天堂大教授、当年80歳、女子選手の船酔を診察、選手村から女子選手
をつれて、ボート合宿所のあるロングビーチまで遊びに行ったこともあ
る)田中くんと相良くんのことは全然しらない。しかし田中くんが彼女
を追っかけ回したということは、あったと思うよ。どうしてかって。い
い子だからさ。相良くんというのは、性格もスタイルもとてもよかった。
あのときの選手はみんないい子ばかりだった(「サンデー毎日
 1979.06.03 p136 山本茂)
(調査経緯)
●これは国会図書館雑誌記事索引人文社会編累積索引版」でわかり、
原物も早大図書館にあったもの。相良八重については日本女子体育専門
学校卒業後広島県立三次高女に体育教師として赴任、教え子の清原澄(
56)の証言。あの頃三次高女には体育の相良先生と音楽の加藤先生とい
う二人の良い先生がいて、とてもうれしかったもんです。相良先生は口
元にホクロがあって、あどけない、可愛い先生でした。加藤先生という
のは二葉あき子さんで、あの「夜のプラットホーム」の歌手、という話
が続く。山本茂の調査は、相良八重について、どこまでも追ってゆける
週刊誌記者の可能な能力を思い知らされるが、そこでかって読んだ2冊
の本を思い出した。
(調査予想)
◎「文芸春秋にみる昭和史」と、相良の教え子がいっていることをうら
づける二葉あき子の自伝である。どちらも2冊からのコピーが現在手元
に発見できないのであるが、コピーした記憶があるのは確かなので、い
つかはここに持ってきて検討材料に出来るだろう。内容は記憶でいうの
であるが、「昭和史」は、宮崎正幸という記者が相良のオリンピック出
場以後を追ったもので、その急死に及ぶもの。二葉の自伝は、相良と同
じ下宿にいて、二人の共同生活の一齣を描いたものであった。この2冊
もう一度調査する必要があろう。