大洋丸文献探索>大河内一雄記事要約>遭難事件以後


拓殖大学出身の河西信慶は、東洋拓殖の本社農林課にいた古参社員で
あったが、「大洋丸」遭難事件が東拓にも多大な爪痕を残したあと初代
マニラ支店長としてフィリピンに赴任した。
昭和19年夏、郷里の高松で夫人が死去し、一時帰国したが、
マニラ帰任を望まず、転任を希望したが、交代支店長がいないため、
やむなくマニラに戻った。米軍の反撃で山中に逃げたが、現地武装兵の
銃撃で死亡した。一緒にいた職員小山虎善は右手の薬指を切り取って、
敗残兵と共に山に立てこもったが、敗戦を迎え、米軍の捕虜となった。
マラリア病に罹った小山は、河西の遺品の指を持って帰国できたが、
河西宅に遺品を届けられないうちに、マラリヤ病のために死亡した。
(「幻の国策会社 東洋拓殖」 日本経済新聞社 1982.11 p244
  大河内一雄)

●東洋拓殖関係者が数名大洋丸乗船者だったことは、あちこちの本で
読んでいたが、遭難事件後でも会社では再び占領地に、マニラなどに、
このような事情で赴任し、米軍の反撃や現地兵の銃撃で死去したという、
気の毒としかいいようがない運命を辿った人もいたのである。この本は、
早大で「東洋拓殖」をキーワードにした調査の時点で、所蔵していたこと
がわかった本である。

◎巻末4頁に参考文献がある。東洋拓殖の二十年史、三十年史は遭難事
件以前の書で、調査対象からはずれる。「大洋丸」記事がありそうなのは、
友邦協会「資料選集東洋拓殖会社」、猪又正一「私の東拓回顧録」、
中原茂敏「大東亜補給戦」などであろうか。巻末参考文献で「大洋丸
が出てきそうなものはコピーして奥付と貼り合わせ保管している。
たまたま手近で見た参考文献リストで、この記事に近い本に、
矢野正美「ルソン島敗残実記」がある。