大洋丸文献探索>二葉あき子記事要約>体操教師相良

○昭和10年、音楽学校を卒業した私はたった一年、故郷の広島で県立
三次高女の音楽の先生をした。双三郡布野村の実家から五里の距離だが、
雪が降るとバスがかよはなくなる。私は学校の近くで下宿生活を始めた。
同じ下宿に相良八重子さんという、オリンピックにも出たことのある、
若い体操の先生がいて、私たちは大の仲良しだった。ある日、町に映画
がかかった。若い乙女の二人は胸ワクワク。「相良先生、行こか」「う
ん、行こ、行こ」私は授業が終わると「先に帰って夕食作って待ってる」
とそそくさと飛んで帰った。てんぷらの材料を買ってきて鼻歌を歌いな
がら蓮根を切っていると、相良先生が帰ってきた。「相良さん、てんぷら
のころもって、うどん粉を卵でまぜるんだよね」「違う、違う、メリケ
ン粉よ」と相良先生。うどん粉をメリケン粉ととりかえてほしいという
私に、店の娘さんが「とりかえても、おなじもんよ、先生」。「体操の
先生と音楽の先生だもんね。仕方ないよ」と相良先生は大笑いした。
(「人生のプラットホーム」東京新聞出版局 1988 p31 二葉あき子)