大洋丸>石川県人乗船者改訂版

    「大洋丸石川県人乗船者」
大洋丸との出会いは田中英光の「オリンポスの果実」、これは昭和7年のオリンピック出場選手の物語である。大正10年5月、運航引受の東洋汽船浅野総一郎と後楯安田善次郎が、処女航海をする記事は、石川県立図書館が所蔵する「加越能時報」に、その他大洋丸初来日記事は、偶然ながら深井が在職した早大図書館所蔵「海事新報」に掲載されていた。

●「独逸賠償船」大正10年5月、A甲板には庭園、図書室、遊泳場、体操場、無線電信室等、庭園には古風の藤椅子を並べ、花木は芳香を放ち、遊泳場は数百畳もある。体操場には電気仕掛けの木馬、B甲板は婦人室、喫煙室、子供部屋、酒保などがあって、婦人室は清楚であり美麗である(「加越能時報 351」加越能時報社 1921 p3 高波紅波)

●「独逸賠償船」今日までに受領したものは総計八隻、そのうち最大の客船であるキヤプフインステレ号は大洋丸と改称して東洋汽船に、クライスト号は吉野丸と改称して日本郵船に、それぞれ大蔵省より貸下げられた(「海事新報 335」帝国海事協会 1921.11.1 p22)

○「大洋丸乗船県人」乗船者がわかると、その伝記の中に「大洋丸」という文字を探した。郷土石川県人であれば、なおさらである。大洋丸航海20年の特に前半10年は、旅客機のない時代で、大洋丸のような豪華客船に乗れたのは、ある種のエリートたちであった。

●「島田清次郎大正11年4月17日、ベストセラー「地上」の印税で、島田が外遊する船は「大洋丸」である。夫の狂暴な振る舞いで、疲労の極にあった新妻の豊子は、その日が変更しないことを願った(「天才と狂人の間」 河出文庫 1994 p148 杉森久英

●「広橋百合子」昭和7年5月、大阪市設グランドのオリンピック近畿地区予選会で日本新記録1m48をとんだ。着物姿が普通の時代、短パンをはいて極限に挑戦する姿は、郷里押水の人々には異様に見えた「広橋の娘、あれは男やないか」とまで言われた(「スポーツ押水」押水町体育協会2003 p20)

●「広橋百合子」昭和7年6月30日、東京での合宿練習を終え「大洋丸」に乗り込みました。永い航海で船に酔うことを最も心配しましたが、甲板での競技練習や器械馬で遊び、愉快に過ごしました(「第十回オリムピック大会報告」三省堂1934 p243 広橋百合子)

●「暁烏敏昭和8年2月10日、横浜よりの「大洋丸」で暁烏敏氏来布。また13年振りに日本のビールが到着した(「布哇年鑑1934-35」日布時事社 1934 p133)

●「暁烏敏昭和8年1月29日、金沢駅前東洋軒で、金沢の方々と支那そば、酒もくむ。吹雪のなか7時15分発急行に乗車。30日午前7時に上野着。午前中武雄が郵船に行き切符を買った。「大洋丸」1等1500円、武雄はツーリスト590円、離れて不便だが10日間に500円もうかる武雄の分を節約した(「暁烏敏全集3−3ハワイ紀行」香草舎1960 p508)

○「暁烏敏伝」の著者、野本永久は「伝」のなかに、このときの船旅で台湾から台湾巡行講演の電報依頼があり、暁烏敏がそれに即応して、昭和8年の全予定を組み替える様子を描写している。切符購入の感想を読んでも、野本が乗船している筈がない。野本はどうして「伝」を書き進めたのだろうか。

●「東善作昭和9年4月26日桑港よりの「大洋丸」で、故国へ飛躍する東善作飛行士、ユニバーサル映画社撮影技師、三村明氏寄港。(「布哇年鑑1934-35年度」1934 p38)

○「東善作」をGoogleで検索したところ、羽咋市立民俗資料館と「かほく市」高松図書館が郷土の人物として写真と伝記を紹介していた。この東善作が「「東京号」による帰国飛行の思い出」という一文を「日本民間航空史話 昭和前期編」(日本航空協会1975 p155-159)に書いていることがわかった。江東区蔵書を検索したら、江東図書館が所蔵していた。

●「東善作」金沢でアメリカのアクロバット鳥人アート・スミス君の名演技に魅せられ、男子の往くところは空なり、我も飛行家たらんことを決意し、柳行李一つを携えて大正5年の秋渡米した。当時太平洋を渡るには船以外の乗り物はなく、横浜〜サンフランシスコ間に13乃至16、7日を要した(「日本民間航空史話」日本航空協会1966 p155 東善作

○以上「大洋丸の石川県人乗船者」の改訂版です。