坪野哲久>山本忠興理工学部長付書記

坪野哲久は深井の郷里能登志賀町高浜生まれで、昭和46年歌集「碧巌」で読売文学賞受賞の歌人、昭和63年82才で亡くなっている。坪野は北陸の厳しい気候に耐えた気性と、言葉を鋭く鍛え上げて歌を詠み、それには東洋大で学んだ漢詩文が素養となっているという。若くして結核に冒され何度も喀血をするが、小康状態の時、渡辺久次郎という友人が就職の世話をしてくれ、昭和15年から昭和17年1月まで早稲田大学理工学部長付書記という身分で1年半ほど早稲田大学で働いていた。その辺の事情をもう少し突っ込んで調べてもらいたいというのが、深井文庫を設置し世話してもらっている志賀町立図書館の森さんの頼みである。一昨日「文献探索2005」の原稿を金沢文圃閣に送付し、昨日到着という田川さんの返事を受けて少しホットしたところで、他用もあることから早稲田の図書館に行き「早稲田大学百年史」関係の本を見た。調べてみると坪野が仕えた理工学部長というのはあのテレビ初期開発者として有名な山本忠興であり、昭和15年早稲田大学50周年事業の目玉である理工学部研究所を開設、所長に就任したところであった。就職の事情や時期から考えて、この夏目坂途中にある研究所に坪田が働いていたのではないかと推定された。なを山本理工学部長のあとは、昭和18年4月、内藤多仲が後任となっている。戦後東京タワーを建設した内藤である。昭和20年5月25日の空襲で理工学部も甚大な被害を受け「多くの資料の殆どを焼失していて」確実なことはわからないと書かれている。