大伴家持>饒石川巡行

○私の志賀町を囲んで、天平20年に大伴家持が多分騎乗と、船上で詠んだ歌4首が、この日頃の私をもまた取り囲んでいる。すなわち、志雄路から・・・鳥総たて・・・鹿島より・・・妹にあわず・・・の4首である。この道筋を、今の地名と言葉で説明してみる。氷見海岸から騎乗して、臼が峰の峠を越え、子浦川に沿って、志雄にくだり、邑知潟河口の羽咋川をわたり、外浦の海辺を行き、気多神社に参詣。邑知潟の左側を、金丸、能登部、鹿島、千路から七尾に入り、所口から海路、能登中島の熊木を目指す。熊木に上陸してまた外浦への道、これから剣地の仁岸川へ向かうのであるが、学説は4説がある。高爪山の山並みを越え、仁岸川の水源から幾つもの川瀬を渡り、剣地の河口へでた①。熊木から西へ外浦富来を目指す途中で、仁岸川の中流へ出、そこから剣地へ下った②。富来へ出て、海岸沿いに北上して仁岸川を渡り、剣地へ入つた③。富来に出て海路を剣地へ付いた④。である。最後の旅路は何を根拠にしての説なのだろう。以上高岡市万葉歴史館編「水辺の万葉集」収録の中葉博文さんの「能登の川瀬−家持の饒石川巡行」による。