能登の歌>志雄路から羽咋の海へ

○「大洋丸」から派生してきた「大伴家持能登の歌5首」に関して、
●抄録と、○私注とで、これからしばらく日記していくことにする。
その「大洋丸」と「大伴家持能登の歌5首」との関係は、以下の通りである。
○「大洋丸」に乗船して、昭和7年のロサンゼルス・オリンピックに出場した
走り幅跳びの選手に広橋百合子(「ロサンゼルス・オリムピック報告書」参照)
がいる。当時は羽咋高等女学校に在学17歳であった。
この人現在の石川県羽咋郡宝達志水町小川出身である。
○昭和7年のオリンピック船「大洋丸」乗船の選手たち特に漕艇選手
田中英光らが活躍(田中英光オリンポスの果実」参照)状況の
「羅府新報」記事を深井に送ってくれた三木身保子さん(加州大図書館司書
のちコロンビア大東洋図書館司書)の母上は羽咋市出身である。
○「大洋丸」に昭和12年乗船(「布哇年鑑」参照)帰国の東善作飛行士は
関東大震災のとき自分の飛行機東京号の胴体に「HELP JAPAN」と
大書してロサンジェルス上空を飛び募金を集め日本へ送った男である。
この男東善作は石川県河北郡の出身であるが羽咋市歴史民俗博物館が
郷土名士として展示紹介している人物である。
羽咋郡志賀町新林テ103に母の家に生まれた深井は、
羽咋郡志雄町杉野屋ウ部62の父の家が旧本籍地である。
○深井は早稲田大学第二文学部日本文学専修を「万葉挽歌論」300枚
書いて卒業した。万葉集後期編集者とされる大伴家持越中国守であった
天平20年(西暦748年国府高岡から氷見、
臼が峰を越えて能登にはいり「出挙」のために能登を巡行する。
能登に入り最初に詠んだ歌が「志雄路から直越えくれば羽咋の海
朝凪したり船楫もがも」である。この志雄路が深井の旧本籍地である。
○こんな、はなはだ迂遠な関係で「大洋丸」から「家持・能登の歌」を
派生させたのである。




●気太の神宮に赴き参り、海辺を行くとき作る歌一首
之乎路から直越え来れば羽咋の海朝凪したり船楫もがも
○富山の氷見から臼が峰を通って志雄街道から真っ直ぐに越えてくると羽咋の海が朝凪しているぞ船と楫を探してこい。昔広かった邑知潟が羽咋の海だという説もあるが、気太神宮前の日本海であろう。能登一位の気太神宮、釈超空の「気多の村若葉くろずむ時に来て遠海原の音を聴きおり」は家持のこの歌を思い浮かべている歌だと思う。